これを書く前に、「寺尾」でGoogle検索してみたら、約175万件ヒットしました(^^;。
やはり、現錣山親方の「寺尾関」のことが多いでしょうか。
そして「寺尾 地名」で検索してみたら、それでも約36,600件がヒット。
鶴見だけでなく、全国的にもあちこちにある地名ですよね。
(神奈川では、綾瀬にも「寺尾」ってありますよね)

鶴見の「寺尾」は、かなり古くからその地名が出てきます。
由来としては、現在の鶴見区東寺尾1丁目にある「松蔭寺」というお寺を中心として、その北側を「北寺尾」、西側を「西寺尾」、東側を「東寺尾」と呼んでいたのが始まりのようです。
なぜ「南寺尾」がないのか?
それは調べてみたんですが、よくわかりません(^^;。
実際には、松蔭寺の南側も現在の地名では「西寺尾」であることから、その3村(当時)でお寺を取り巻くことで、南の地名をつける意味はなかったのではないでしょうか。

現在鶴見にお住まいの方、あるいは鶴見をご存じの方なら、「あれ?、松蔭寺の北側は馬場じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、当初は「北寺尾村」だったんです。

室町時代、諏訪守馬之助というお殿様が、現在の馬場3丁目の山の上一帯に「寺尾城」を築きました。
そう、鶴見になんとお城があったんですね。
それ以来百数十年間にわたり、小田原北条氏に仕えながらこの地を治めていた、との記述があちこちで見受けられます。
このお殿様は、その名の通り出身は諏訪のようで、鶴見寺尾城を築く前に、実は川越にも「寺尾城」を築いているのです。
(川越にも「寺尾」という地名があり、双方が同じ名前になったのは偶然なのか、意図的なものなのかは定かではないようです)
川越も鶴見も、いずれも「出城」で天守閣があるような立派なお城ではなく、いわば「前線基地」のようなところだったそうです。
ところが、北条氏と共に遠征中、1575年に武田軍に滅ぼされ諏訪氏と共に寺尾城も落城してしまった、とのことです。

寺尾城については、歴史的文献が少ないことから謎の部分も多いようですが、その諏訪氏、実は馬術がかなりの苦手だったようです。
その“特訓”をするために作った“馬場”が、現在の馬場2〜3丁目の、臨港バスバス停「馬場谷」のあたりだった、という言い伝えがあり、そこから「馬場」という地名が成立した、と伝えられています。
ちなみに、その諏訪氏が実際に住んでいたのが、今の「諏訪坂」であると伝えられています。

現在、寺尾城があったとされているところの坂の下、宝蔵院(馬場4丁目)のそばには「殿山公園」が整備され、堀跡(空堀)も残されています。
自分が子供の頃には、何ヶ所かで堀跡が見られたものですが…。

鶴見の歴史、という観点でも中世の頃のことはこの寺尾城くらいしか伝聞がなく、当時はほとんどが田畑で埋め尽くされていた、と考えられると思います。
その名残は、獅子ヶ谷の横溝屋敷周辺や、旭小学校周辺にもわずかですが見られますね。

※参考
「寺尾城百話」(著者・出版元不明)
「鶴見区役所ホームページ 鶴見区の概要・歴史(3)」http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/info/rekisi/03.html
「城跡ほっつき歩き 寺尾城」http://www.geocities.jp/tsukayan0112/subdir-siropage/teraojou.html
唐突ですが、「関内が埋め立て地だ」、ってみなさん、ご存じでした?
というか、信じられます?(^^;

現在の、大岡川と首都高速狩場線に挟まれた“釣り鐘”の土地が、江戸時代に埋め立てられた「吉田新田」です。
但し、海に近い、現在の「コンテナ道路(国道133号線)」と、「海岸通り(山下公園前の通り)」に挟まれた、県庁があるエリアは、もともとあった土地でした。
この部分の地形が、山手の方から「横に伸びる濱(浜)」だったことが、現在の「横浜」の地名の由来になっており、当時はこの辺が「横濱村」と呼ばれていました。

その、釣り鐘状の入り江を埋め立て、耕地にしようと江戸の商人「吉田勘兵衛」が、明暦2(1656)年に埋め立て事業を開始しました。
その事業は、当時の技術で10年以上もかかる大工事・難工事だったそうです。
そのため、当時行われていた「人柱」がこの工事でも行われたそうですが、この吉田家に使えていた女中「おさん」が、自ら人柱に立つ、と名乗り出て、吉田勘兵衛が止めても聞かずに立ったんだとか。
その「おさん」を祭っているのが、伊勢佐木町の商店街をずっと歩いていくとある、「お三の宮」こと、「日枝神社」だそうです。
(「お三の宮」の名前の由来には、諸説あるようですが)

当時(1650年以降)、江戸幕府の政治も落ち着き始め、それまでの天下統一のために費やされてきた軍力整備がなくなり、庶民の生活、ひいては国力増加のため、各地で新田開発が行われたそうです。
さらにその背景としては、幕府が置かれた江戸の人口が、幕府が開かれた時には10〜20万人ほどだったところが、その50年後には7〜80万人にもふくれあがり、その食糧確保、ということもあったんだと思います。
余談ですが、おそらく鶴見の潮田地域(鶴見駅の東側、鶴見川の反対側の地域)も、この頃に埋め立てられたと思います。(江戸初期の地図では、この辺は海になっていたため)

どのような技術が投入されたのかということについては、残念ながら詳細な記述が関東大震災でなくなってしまったそうでわからないということですが、いろんなサイトを見て回るとそれらの全貌が見えてくると思います。
興味を持たれた方は、是非ご覧になってみてはいかがでしょうか?(^^)

また、この埋め立ても含め、福音館書店刊の「ある都市のれきし −横浜・330年−」という本には、同じ視点から横浜を眺め続けたイラストが、時系列的に掲載されていて、小学生でもわかりやすく読めると思います。
(うちのサロンに置いてあります(笑))
横浜の歴史を知るためには、とてもわかりやすい本だと思いますよ!


※参考
「ある都市のれきし −横浜・330年−」 北沢猛(文) 内山正(絵) 福音館書店
「有鄰 No.468 座談会 吉田新田と横浜の埋め立て」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_468/yurin.html)(有隣堂のサイトです)
臨港バスの歴史について書いてみたいと思います。
そのためには、鶴見線についても触れないわけにいかないので、例によって長文になると思います(^^;。

大正13(1924)年、京浜工業地帯の貨物輸送を目的に、この土地を埋め立てた浅野総一郎ほか数名によって、鶴見線の前身である私鉄の「鶴見臨港鉄道株式会社」が発足し、翌年の大正15(1926)年に貨物営業を、浜川崎〜弁天橋、武蔵白石〜大川間の路線で開業しました。
その後路線を省線(当時)の鶴見駅まで乗り入れ、旅客営業も開始したのですが、実は貨物営業を開始する前年の大正14(1925)年には、「海岸電気軌道」という路面電車が、現在の鶴見線の内側を走る路線で開業していたんです。
その路線は、現在「開かずの踏切」として全国的に(?)有名である総持寺踏切のところにあった、京浜電車(当時。現在の京急電鉄)の「総持寺」駅を基点に、下野谷を経由して現在の産業道路を走り、京浜電車大師線の「川崎大師」駅までを結ぶものでした。

この「海岸電気軌道」は、実は京浜電車の子会社だったんです。
ライバル会社となる「鶴見臨港鉄道」が鶴見駅延伸、旅客営業許可の申請を出したことには当然のように反対運動を起こしましたが、結果的に「海岸電気軌道」は「鶴見臨港鉄道」に買収され、そして「鶴見臨港鉄道」は昭和5(1930)年に仮駅で鶴見延伸、そして旅客営業を開始しました。
それとほぼ同時、昭和6(1931)年にはバス事業を開始し、綱島温泉(当時)への観光客の足の確保、その沿線に住んでいた工業地帯従業員の足の確保などとして、鶴見駅西口から綱島までの路線が開業しました。
これが、実質的に臨港バスの初期路線になるのですが、この時はまだ臨港鉄道のバス部門でした。

昭和12(1937)年、“産業道路”整備の話が持ち上がり、ほとんどの区間が重なってしまう「海岸電気軌道」は撤去されることになり、その代わりに鶴見〜川崎大師間のバス路線免許が与えられました。
既存のバス部門を分社化し、この免許路線を加えて発足したのが、「鶴見川崎臨港バス」で、この年が現在の「川崎鶴見臨港バス」の開業年となり、それから今年が70年目を迎えた、という流れです。
「鶴見川崎臨港バス」は、翌年には「川崎乗合自動車」を買収して社名を現在の「川崎鶴見臨港バス」に変更、その後も近隣の乗合自動車会社を買収していき現在の規模になりました。

余談ですが、当時は京浜電鉄とライバルだった「鶴見臨港鉄道」、現在は「東亜建設工業」(京浜工業地帯を埋め立てた「鶴見埋築株式会社」の現社名)のグループ会社として、実はまだ存在しています。
社名はそのままですが、実質的には鶴見駅西口の「ミナール」ビルの管理会社として、東亜建設工業から出向されている社員さん数名(一説には1名だけとか)で運営されています。
これは、戦中国鉄に買収された際、「戦後また払い下げるから会社は存続しておくように」という命を受けてのものだったのですが、結果的に払い下げは実現せず、そのまま会社だけが残った、ということなのです。
その傘下だった「川崎鶴見臨港バス」は、ライバルであった京浜電鉄(→現・京急電鉄)に買収されたのか、現在は京急グループの一角を担うバス会社となっています。
その辺の詳細がよくわかりません(^^;。

主にバスを巡る流れで書いてきましたが、ついでに(^^ゞ。
「鶴見臨港鉄道」、実は延伸の計画がありました。
現在の鶴見駅から、矢向・尻手方面へ延伸し、南武鉄道(現在の南武線。これも浅野グループ企業でした。)と連絡して旅客や砂利などの貨物輸送を円滑に行う計画だったそうです。
実際、鶴見駅から鶴見川までは土地を買収したものの、国鉄による買収のために計画は頓挫してしまった、とのこと。
この他にも、浜川崎から浮島・穴守稲荷・羽田・大森までの延伸計画もあったようです。(一部は「神奈川臨海鉄道」(貨物線)として、別事業者によって実施されています。)
その名残として、現在も鶴見駅西口の、ミナールから末吉大通りへ向かうJRの線路際の土地は、東亜建設工業が所有しているところもあります。(寮もあったりします)

この計画が実施されていたら、鶴見東部の交通の便は、格段によかったでしょうね(^^;。

※参考
「鶴見線物語」 サトウマコト著 (株)230クラブ新聞社
別ブログで、地元の歴史について書き始めたので、それをこちらにも転記しておきたいと思います。
今回は、「横浜市鶴見区」について。
(行政区分に限って書いてみたいと思います。歴史的なことはまたいずれ(^^;)

奈良・平安の頃、律令制度が出来た頃から、この辺は「橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれ、江戸時代は幕府の直轄地でした。
今、自分が住んでいる寺尾・馬場というところは、江戸時代には「旭村」という大きな村になっていました。
「旭」という字を解体すると、「九つの日」と読めるように、9つの小さな村(北寺尾村・馬場村・東寺尾村・駒岡村など)が合併してできたんだそうです。
現在、この「旭」というのは地名としては存在しておらず、自分の母校である「横浜市立旭小学校」や、東電の「旭変電所」にその名残が存在する程度です。

江戸時代から明治・大正にかけてもずっとこの辺は「旭村」でしたが、東海道(現在の旧東海道・国道15号線一帯)を中心としたエリアが「鶴見町」、鶴見川を海側に渡ったあたりは「潮田村」と呼ばれ、現在の「鶴見区」は3つの町村に別れていたわけです。
(川崎側の矢向・尻手方面は定かではありません(^^;が、おそらくそのいずれかに属していたものと思います。)

大正末期あたりから、すでに誕生していた「横浜市」への編入の機運が高まり、その3町村の代表が集まって協議をしたらしいのです。
「横浜市」へ編入するのか、それとも「鶴見市」を立ち上げるのか…。
(参考資料には書かれていませんが、おそらく当時発足していた「川崎市」への編入も、協議されたと推測はできます)
というのも、鶴見にはすでに京浜工業地帯が成立しており、単独行政を行ってもそれに見合う税収も見込めたから、だと俺は推測しています。
また、京浜工業地帯は行政区分としては「川崎市」(当時は現在の川崎区の一部・幸区の一部が「川崎市」でした)ともつながりが深く、「横浜市」への編入よりも、独自行政、もしくは「川崎市」への編入の方が、うま味が大きかったんじゃないかと思うんですよね。

様々な議論が行われたでしょうが、結果として3町村は「横浜市」への編入を決め、3町村が合併して「横浜市鶴見区」が昭和2年(1927年)に誕生しました。
ちなみに、今年は区制80周年の節目の年になります。

歴史の好きなお客様と、こういう話をよくしています(^^ゞ。
その時にいつも思うんですけど、仮にその時、「鶴見市」になっていたらどうなったんだろう、と。
当時まだ現在の「港北区」は「横浜市」にも「川崎市」にも属していませんでしたから、その当たりも巻き込んで、埼玉の蕨市のような行政体になっていたのかな〜、とか、結果的に川崎か横浜か、どちらかの行政体と合併していたのかな〜、とか、いろいろ妄想しています(^^;。

※参考
鶴見区役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/
横浜市役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/

間違い等ありましたら、ご指摘いただければ幸いです。

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