「寺尾」というところ
2007年11月22日 地元の歴史 コメント (1)これを書く前に、「寺尾」でGoogle検索してみたら、約175万件ヒットしました(^^;。
やはり、現錣山親方の「寺尾関」のことが多いでしょうか。
そして「寺尾 地名」で検索してみたら、それでも約36,600件がヒット。
鶴見だけでなく、全国的にもあちこちにある地名ですよね。
(神奈川では、綾瀬にも「寺尾」ってありますよね)
鶴見の「寺尾」は、かなり古くからその地名が出てきます。
由来としては、現在の鶴見区東寺尾1丁目にある「松蔭寺」というお寺を中心として、その北側を「北寺尾」、西側を「西寺尾」、東側を「東寺尾」と呼んでいたのが始まりのようです。
なぜ「南寺尾」がないのか?
それは調べてみたんですが、よくわかりません(^^;。
実際には、松蔭寺の南側も現在の地名では「西寺尾」であることから、その3村(当時)でお寺を取り巻くことで、南の地名をつける意味はなかったのではないでしょうか。
現在鶴見にお住まいの方、あるいは鶴見をご存じの方なら、「あれ?、松蔭寺の北側は馬場じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、当初は「北寺尾村」だったんです。
室町時代、諏訪守馬之助というお殿様が、現在の馬場3丁目の山の上一帯に「寺尾城」を築きました。
そう、鶴見になんとお城があったんですね。
それ以来百数十年間にわたり、小田原北条氏に仕えながらこの地を治めていた、との記述があちこちで見受けられます。
このお殿様は、その名の通り出身は諏訪のようで、鶴見寺尾城を築く前に、実は川越にも「寺尾城」を築いているのです。
(川越にも「寺尾」という地名があり、双方が同じ名前になったのは偶然なのか、意図的なものなのかは定かではないようです)
川越も鶴見も、いずれも「出城」で天守閣があるような立派なお城ではなく、いわば「前線基地」のようなところだったそうです。
ところが、北条氏と共に遠征中、1575年に武田軍に滅ぼされ諏訪氏と共に寺尾城も落城してしまった、とのことです。
寺尾城については、歴史的文献が少ないことから謎の部分も多いようですが、その諏訪氏、実は馬術がかなりの苦手だったようです。
その“特訓”をするために作った“馬場”が、現在の馬場2〜3丁目の、臨港バスバス停「馬場谷」のあたりだった、という言い伝えがあり、そこから「馬場」という地名が成立した、と伝えられています。
ちなみに、その諏訪氏が実際に住んでいたのが、今の「諏訪坂」であると伝えられています。
現在、寺尾城があったとされているところの坂の下、宝蔵院(馬場4丁目)のそばには「殿山公園」が整備され、堀跡(空堀)も残されています。
自分が子供の頃には、何ヶ所かで堀跡が見られたものですが…。
鶴見の歴史、という観点でも中世の頃のことはこの寺尾城くらいしか伝聞がなく、当時はほとんどが田畑で埋め尽くされていた、と考えられると思います。
その名残は、獅子ヶ谷の横溝屋敷周辺や、旭小学校周辺にもわずかですが見られますね。
※参考
「寺尾城百話」(著者・出版元不明)
「鶴見区役所ホームページ 鶴見区の概要・歴史(3)」http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/info/rekisi/03.html
「城跡ほっつき歩き 寺尾城」http://www.geocities.jp/tsukayan0112/subdir-siropage/teraojou.html
やはり、現錣山親方の「寺尾関」のことが多いでしょうか。
そして「寺尾 地名」で検索してみたら、それでも約36,600件がヒット。
鶴見だけでなく、全国的にもあちこちにある地名ですよね。
(神奈川では、綾瀬にも「寺尾」ってありますよね)
鶴見の「寺尾」は、かなり古くからその地名が出てきます。
由来としては、現在の鶴見区東寺尾1丁目にある「松蔭寺」というお寺を中心として、その北側を「北寺尾」、西側を「西寺尾」、東側を「東寺尾」と呼んでいたのが始まりのようです。
なぜ「南寺尾」がないのか?
それは調べてみたんですが、よくわかりません(^^;。
実際には、松蔭寺の南側も現在の地名では「西寺尾」であることから、その3村(当時)でお寺を取り巻くことで、南の地名をつける意味はなかったのではないでしょうか。
現在鶴見にお住まいの方、あるいは鶴見をご存じの方なら、「あれ?、松蔭寺の北側は馬場じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、当初は「北寺尾村」だったんです。
室町時代、諏訪守馬之助というお殿様が、現在の馬場3丁目の山の上一帯に「寺尾城」を築きました。
そう、鶴見になんとお城があったんですね。
それ以来百数十年間にわたり、小田原北条氏に仕えながらこの地を治めていた、との記述があちこちで見受けられます。
このお殿様は、その名の通り出身は諏訪のようで、鶴見寺尾城を築く前に、実は川越にも「寺尾城」を築いているのです。
(川越にも「寺尾」という地名があり、双方が同じ名前になったのは偶然なのか、意図的なものなのかは定かではないようです)
川越も鶴見も、いずれも「出城」で天守閣があるような立派なお城ではなく、いわば「前線基地」のようなところだったそうです。
ところが、北条氏と共に遠征中、1575年に武田軍に滅ぼされ諏訪氏と共に寺尾城も落城してしまった、とのことです。
寺尾城については、歴史的文献が少ないことから謎の部分も多いようですが、その諏訪氏、実は馬術がかなりの苦手だったようです。
その“特訓”をするために作った“馬場”が、現在の馬場2〜3丁目の、臨港バスバス停「馬場谷」のあたりだった、という言い伝えがあり、そこから「馬場」という地名が成立した、と伝えられています。
ちなみに、その諏訪氏が実際に住んでいたのが、今の「諏訪坂」であると伝えられています。
現在、寺尾城があったとされているところの坂の下、宝蔵院(馬場4丁目)のそばには「殿山公園」が整備され、堀跡(空堀)も残されています。
自分が子供の頃には、何ヶ所かで堀跡が見られたものですが…。
鶴見の歴史、という観点でも中世の頃のことはこの寺尾城くらいしか伝聞がなく、当時はほとんどが田畑で埋め尽くされていた、と考えられると思います。
その名残は、獅子ヶ谷の横溝屋敷周辺や、旭小学校周辺にもわずかですが見られますね。
※参考
「寺尾城百話」(著者・出版元不明)
「鶴見区役所ホームページ 鶴見区の概要・歴史(3)」http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/info/rekisi/03.html
「城跡ほっつき歩き 寺尾城」http://www.geocities.jp/tsukayan0112/subdir-siropage/teraojou.html
コメント