唐突ですが、「関内が埋め立て地だ」、ってみなさん、ご存じでした?
というか、信じられます?(^^;
現在の、大岡川と首都高速狩場線に挟まれた“釣り鐘”の土地が、江戸時代に埋め立てられた「吉田新田」です。
但し、海に近い、現在の「コンテナ道路(国道133号線)」と、「海岸通り(山下公園前の通り)」に挟まれた、県庁があるエリアは、もともとあった土地でした。
この部分の地形が、山手の方から「横に伸びる濱(浜)」だったことが、現在の「横浜」の地名の由来になっており、当時はこの辺が「横濱村」と呼ばれていました。
その、釣り鐘状の入り江を埋め立て、耕地にしようと江戸の商人「吉田勘兵衛」が、明暦2(1656)年に埋め立て事業を開始しました。
その事業は、当時の技術で10年以上もかかる大工事・難工事だったそうです。
そのため、当時行われていた「人柱」がこの工事でも行われたそうですが、この吉田家に使えていた女中「おさん」が、自ら人柱に立つ、と名乗り出て、吉田勘兵衛が止めても聞かずに立ったんだとか。
その「おさん」を祭っているのが、伊勢佐木町の商店街をずっと歩いていくとある、「お三の宮」こと、「日枝神社」だそうです。
(「お三の宮」の名前の由来には、諸説あるようですが)
当時(1650年以降)、江戸幕府の政治も落ち着き始め、それまでの天下統一のために費やされてきた軍力整備がなくなり、庶民の生活、ひいては国力増加のため、各地で新田開発が行われたそうです。
さらにその背景としては、幕府が置かれた江戸の人口が、幕府が開かれた時には10〜20万人ほどだったところが、その50年後には7〜80万人にもふくれあがり、その食糧確保、ということもあったんだと思います。
余談ですが、おそらく鶴見の潮田地域(鶴見駅の東側、鶴見川の反対側の地域)も、この頃に埋め立てられたと思います。(江戸初期の地図では、この辺は海になっていたため)
どのような技術が投入されたのかということについては、残念ながら詳細な記述が関東大震災でなくなってしまったそうでわからないということですが、いろんなサイトを見て回るとそれらの全貌が見えてくると思います。
興味を持たれた方は、是非ご覧になってみてはいかがでしょうか?(^^)
また、この埋め立ても含め、福音館書店刊の「ある都市のれきし −横浜・330年−」という本には、同じ視点から横浜を眺め続けたイラストが、時系列的に掲載されていて、小学生でもわかりやすく読めると思います。
(うちのサロンに置いてあります(笑))
横浜の歴史を知るためには、とてもわかりやすい本だと思いますよ!
※参考
「ある都市のれきし −横浜・330年−」 北沢猛(文) 内山正(絵) 福音館書店
「有鄰 No.468 座談会 吉田新田と横浜の埋め立て」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_468/yurin.html)(有隣堂のサイトです)
というか、信じられます?(^^;
現在の、大岡川と首都高速狩場線に挟まれた“釣り鐘”の土地が、江戸時代に埋め立てられた「吉田新田」です。
但し、海に近い、現在の「コンテナ道路(国道133号線)」と、「海岸通り(山下公園前の通り)」に挟まれた、県庁があるエリアは、もともとあった土地でした。
この部分の地形が、山手の方から「横に伸びる濱(浜)」だったことが、現在の「横浜」の地名の由来になっており、当時はこの辺が「横濱村」と呼ばれていました。
その、釣り鐘状の入り江を埋め立て、耕地にしようと江戸の商人「吉田勘兵衛」が、明暦2(1656)年に埋め立て事業を開始しました。
その事業は、当時の技術で10年以上もかかる大工事・難工事だったそうです。
そのため、当時行われていた「人柱」がこの工事でも行われたそうですが、この吉田家に使えていた女中「おさん」が、自ら人柱に立つ、と名乗り出て、吉田勘兵衛が止めても聞かずに立ったんだとか。
その「おさん」を祭っているのが、伊勢佐木町の商店街をずっと歩いていくとある、「お三の宮」こと、「日枝神社」だそうです。
(「お三の宮」の名前の由来には、諸説あるようですが)
当時(1650年以降)、江戸幕府の政治も落ち着き始め、それまでの天下統一のために費やされてきた軍力整備がなくなり、庶民の生活、ひいては国力増加のため、各地で新田開発が行われたそうです。
さらにその背景としては、幕府が置かれた江戸の人口が、幕府が開かれた時には10〜20万人ほどだったところが、その50年後には7〜80万人にもふくれあがり、その食糧確保、ということもあったんだと思います。
余談ですが、おそらく鶴見の潮田地域(鶴見駅の東側、鶴見川の反対側の地域)も、この頃に埋め立てられたと思います。(江戸初期の地図では、この辺は海になっていたため)
どのような技術が投入されたのかということについては、残念ながら詳細な記述が関東大震災でなくなってしまったそうでわからないということですが、いろんなサイトを見て回るとそれらの全貌が見えてくると思います。
興味を持たれた方は、是非ご覧になってみてはいかがでしょうか?(^^)
また、この埋め立ても含め、福音館書店刊の「ある都市のれきし −横浜・330年−」という本には、同じ視点から横浜を眺め続けたイラストが、時系列的に掲載されていて、小学生でもわかりやすく読めると思います。
(うちのサロンに置いてあります(笑))
横浜の歴史を知るためには、とてもわかりやすい本だと思いますよ!
※参考
「ある都市のれきし −横浜・330年−」 北沢猛(文) 内山正(絵) 福音館書店
「有鄰 No.468 座談会 吉田新田と横浜の埋め立て」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_468/yurin.html)(有隣堂のサイトです)
コメント
小学校時代(横浜市立)学校で配布された冊子に載ってましたね〜。
当時から、そんなところに地下鉄を掘っているのが不思議でなりませんでしたよ。
お久しぶりです〜(^^*)。
当時は、そういう冊子(確か「横浜の歴史」)が配布されましたよね。
今の子たちは、知らない子も多いみたいなんですよ。
確かに考えてみれば、あんな軟弱な地盤で、よく地下鉄を作りましたよね(^^;。