別ブログで、地元の歴史について書き始めたので、それをこちらにも転記しておきたいと思います。
今回は、「横浜市鶴見区」について。
(行政区分に限って書いてみたいと思います。歴史的なことはまたいずれ(^^;)

奈良・平安の頃、律令制度が出来た頃から、この辺は「橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれ、江戸時代は幕府の直轄地でした。
今、自分が住んでいる寺尾・馬場というところは、江戸時代には「旭村」という大きな村になっていました。
「旭」という字を解体すると、「九つの日」と読めるように、9つの小さな村(北寺尾村・馬場村・東寺尾村・駒岡村など)が合併してできたんだそうです。
現在、この「旭」というのは地名としては存在しておらず、自分の母校である「横浜市立旭小学校」や、東電の「旭変電所」にその名残が存在する程度です。

江戸時代から明治・大正にかけてもずっとこの辺は「旭村」でしたが、東海道(現在の旧東海道・国道15号線一帯)を中心としたエリアが「鶴見町」、鶴見川を海側に渡ったあたりは「潮田村」と呼ばれ、現在の「鶴見区」は3つの町村に別れていたわけです。
(川崎側の矢向・尻手方面は定かではありません(^^;が、おそらくそのいずれかに属していたものと思います。)

大正末期あたりから、すでに誕生していた「横浜市」への編入の機運が高まり、その3町村の代表が集まって協議をしたらしいのです。
「横浜市」へ編入するのか、それとも「鶴見市」を立ち上げるのか…。
(参考資料には書かれていませんが、おそらく当時発足していた「川崎市」への編入も、協議されたと推測はできます)
というのも、鶴見にはすでに京浜工業地帯が成立しており、単独行政を行ってもそれに見合う税収も見込めたから、だと俺は推測しています。
また、京浜工業地帯は行政区分としては「川崎市」(当時は現在の川崎区の一部・幸区の一部が「川崎市」でした)ともつながりが深く、「横浜市」への編入よりも、独自行政、もしくは「川崎市」への編入の方が、うま味が大きかったんじゃないかと思うんですよね。

様々な議論が行われたでしょうが、結果として3町村は「横浜市」への編入を決め、3町村が合併して「横浜市鶴見区」が昭和2年(1927年)に誕生しました。
ちなみに、今年は区制80周年の節目の年になります。

歴史の好きなお客様と、こういう話をよくしています(^^ゞ。
その時にいつも思うんですけど、仮にその時、「鶴見市」になっていたらどうなったんだろう、と。
当時まだ現在の「港北区」は「横浜市」にも「川崎市」にも属していませんでしたから、その当たりも巻き込んで、埼玉の蕨市のような行政体になっていたのかな〜、とか、結果的に川崎か横浜か、どちらかの行政体と合併していたのかな〜、とか、いろいろ妄想しています(^^;。

※参考
鶴見区役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/
横浜市役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/

間違い等ありましたら、ご指摘いただければ幸いです。

コメント

nophoto
U子
2007年11月20日22:39

へぇーへぇーへぇー ・・・∞ 知らないことばかりです。
鶴見市・・・・!!!衝撃的です!!!
鶴見区は横浜市でありながら川崎にも近いので、ハマっ子にもサキっ子にもなれとってもおトク感があります♪♪♪
そんな鶴見っ子な私です。(#^.^#)

佑太
佑太
2007年11月21日19:49

>U子さん
コメントありがとうございます〜(^^*)。
子供の頃、ある番組にコメントを寄せたら「川崎市鶴見区の…」って読まれたことがありまして、当時はちょっとショックでした(^^ゞ。
今は、とてもいい場所だなぁ、って思ってますよ(^^)。

nophoto
U子
2007年11月21日23:20

分かります分かります!
「鶴見」というと「川崎だー」と言われることありますよね。
確かに横浜市と川崎市の境目ですけどね。
横浜市歌は歌えるけれど 川崎市歌は知りませんよね。

佑太
佑太
2007年11月22日8:56

>U子さん
川崎市歌、確かに知らないです(^^ゞ。
5年ほど川崎市に籍を置いていたこともあったんですけどね。
公式なイベントにでも行かない限り、耳にすることもないでしょうし。
横浜市歌は「クレイジー・ケン・バンド」がアレンジしたものが出たりと、「横浜、やるじゃん!」と思えることがいくつかありますよね(^_-)-☆

nophoto
みぃ
2011年8月19日16:28

分かりやすい記事ありがとうございます!
中学の宿題、身近な地域の歴史のレポートに使わせていただきます!
とっても参考になりました☆

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