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2008年9月19日 日常 コメント (7)ガソリン値上げのこと
2008年5月1日 時事ニュース確かに自分は自動車を持っていない(ただし50ccの原付は持ってる)のでこんなコトが言えるのかもしれないけれど、今回の暫定税率復活は賛成している、おそらく数少ないうちの1人だと思います。
確かに家計や事業運営への負担は増大しますよね。
原チャリにしたって、タンクが6リットルだから、カラで満タンにすれば180円くらい変わってくることになります。
ガソリン税は、多くの道路や歩道などを作るため、またそれらを維持するための予算として使われるようです。
ニュースにもなったように、間違った使い道をしているところも多々あるようですが、それが全部を占めているなんて思えないし、実際4月から道路工事が全面ストップ、あるいは道路・歩道の補修工事がストップしているところが、本当に多いんだそうです。
お客様の話を伺っても、地方は困っている、と。
何しろ、都心を離れれば離れるほど、自家用車での移動に対する依頼度が高まっているのが現状であり、そのインフラとしての道路が整備・維持されなければ、生活もままならないわけです。
もちろんその道路を走るためには、車にガソリンを入れて走らなければいけないので、地方とて車に乗る方の負担は増えるわけですが、それ以前の問題として、道路がなければ生活にならない。
まるで「ニワトリが先か卵が先か」の論争をしているようですが、もう一つ、道路工事ができなければそれを請け負っている地方ゼネコン(とその関連会社)の経営問題にまで発展し、むしろ地方の経済は滞ってしまうところもあるんじゃないでしょうか?
ネットニュースで、民主党の議員が「地方の声は(ガソリン)値下げだ!」とプラカードを掲げ、河野衆院議長の議場入りを阻止した議員がいたようですが、彼(ら)は本当に地方の声を代弁していたのでしょうか?
確かにそういう声もあるでしょうけれど、国会議員としての仕事は、いろんなことを総合してその意見をまとめ、国政へと反映させることが第一だと思ってるので、民主党議員のやっていることにとても疑問を感じました。
また、ガソリンそのものの値上げは環境問題とも絡めると、自動車使用の抑制効果もあるように思います。
ガソリンが高ければ不要な使用は控えられる方も出てくるでしょうから、二酸化炭素排出の抑制や道路渋滞の緩和にも多少つながるでしょうし、悪いことばかりではないように思います。
公共交通では、航空機以外は燃料費負担増による値上げは今のところありませんから、もう少し公共交通がこの際見直されてもいいんじゃないかな、というのが率直な感想です。
先ほどの話とは逆で、都市、特に首都圏にいればよっぽどのところではない限り、バスや鉄道が整備されていて、自動車がなくても充分移動できるところが多いと思います。
荷物が多かったり、お子様連れだったり、車がないと不便だ、という声も当然あるでしょうが、我が家は幸いにして(外れとはいえ)横浜であることから、自家用車を持っていませんが不便を感じたことはありません。
子供を連れて公共交通に乗ろうと思えば、スリングやベビーカーを使ったり、買い物もむしろ不必要な購入を避けることで、家計の抑制効果も働きます(笑)。
一番大きな荷物になる食材の買い出しは、まとめてではなくその日、あるいは当面使う材料だけを、近所のスーパーで購入すれば、持ち運びの負担もそれほどはありません。
一昔前はみんなそうだったんだから、今できないことはない。
そう思いますね。
世の中便利になりすぎた、とは言いませんが、少し考え方を変えるだけで、自動車依存の生活からは充分離れられると思いますが、どうでしょうねぇ・・・。
確かに家計や事業運営への負担は増大しますよね。
原チャリにしたって、タンクが6リットルだから、カラで満タンにすれば180円くらい変わってくることになります。
ガソリン税は、多くの道路や歩道などを作るため、またそれらを維持するための予算として使われるようです。
ニュースにもなったように、間違った使い道をしているところも多々あるようですが、それが全部を占めているなんて思えないし、実際4月から道路工事が全面ストップ、あるいは道路・歩道の補修工事がストップしているところが、本当に多いんだそうです。
お客様の話を伺っても、地方は困っている、と。
何しろ、都心を離れれば離れるほど、自家用車での移動に対する依頼度が高まっているのが現状であり、そのインフラとしての道路が整備・維持されなければ、生活もままならないわけです。
もちろんその道路を走るためには、車にガソリンを入れて走らなければいけないので、地方とて車に乗る方の負担は増えるわけですが、それ以前の問題として、道路がなければ生活にならない。
まるで「ニワトリが先か卵が先か」の論争をしているようですが、もう一つ、道路工事ができなければそれを請け負っている地方ゼネコン(とその関連会社)の経営問題にまで発展し、むしろ地方の経済は滞ってしまうところもあるんじゃないでしょうか?
ネットニュースで、民主党の議員が「地方の声は(ガソリン)値下げだ!」とプラカードを掲げ、河野衆院議長の議場入りを阻止した議員がいたようですが、彼(ら)は本当に地方の声を代弁していたのでしょうか?
確かにそういう声もあるでしょうけれど、国会議員としての仕事は、いろんなことを総合してその意見をまとめ、国政へと反映させることが第一だと思ってるので、民主党議員のやっていることにとても疑問を感じました。
また、ガソリンそのものの値上げは環境問題とも絡めると、自動車使用の抑制効果もあるように思います。
ガソリンが高ければ不要な使用は控えられる方も出てくるでしょうから、二酸化炭素排出の抑制や道路渋滞の緩和にも多少つながるでしょうし、悪いことばかりではないように思います。
公共交通では、航空機以外は燃料費負担増による値上げは今のところありませんから、もう少し公共交通がこの際見直されてもいいんじゃないかな、というのが率直な感想です。
先ほどの話とは逆で、都市、特に首都圏にいればよっぽどのところではない限り、バスや鉄道が整備されていて、自動車がなくても充分移動できるところが多いと思います。
荷物が多かったり、お子様連れだったり、車がないと不便だ、という声も当然あるでしょうが、我が家は幸いにして(外れとはいえ)横浜であることから、自家用車を持っていませんが不便を感じたことはありません。
子供を連れて公共交通に乗ろうと思えば、スリングやベビーカーを使ったり、買い物もむしろ不必要な購入を避けることで、家計の抑制効果も働きます(笑)。
一番大きな荷物になる食材の買い出しは、まとめてではなくその日、あるいは当面使う材料だけを、近所のスーパーで購入すれば、持ち運びの負担もそれほどはありません。
一昔前はみんなそうだったんだから、今できないことはない。
そう思いますね。
世の中便利になりすぎた、とは言いませんが、少し考え方を変えるだけで、自動車依存の生活からは充分離れられると思いますが、どうでしょうねぇ・・・。
すでに多くの方がご存じだと思うので詳細は省略しますが、21日にご逝去なされた、との一報を聞き、ただただ驚いています。
そして、残念でなりません。
お通夜が執り行われる今日に降ったこの雪→雨は、きっとファンの涙雨じゃないか、なんて思ってます。
心からご冥福をお祈りしたいと思います。
博一さん、俺にとっては数少ない、直接お会いしてお話しもさせて頂いたことのある方でした。
残念ながら引退後、ですが。
2003年の秋、確か10月頃だったと思います。
組合の講師会・教育部という組織の合同研修会が、箱根湯本の「湯本富士屋ホテル」で行われ、その席上で博一さんの講演がある、という情報をキャッチしました。
俺は教育部でも講師でもないので全く無関係なのですが、ちょうどその頃は毎月新杉田の県本部で行われていた、大学科という教育プログラムに参加していて、いろんな先生方・事務員さんたちとも面識ができてきていた頃で、無理にお願いして講演だけ聞かせてもらうようにお願いしました。
その願いは聞き入れられ、はるばる1時間半の講演を聴くために、箱根湯本まで出かけて参りました。
講演のテーマは「プロ野球と私」だったかと思いますが、その話の内容は、博一さんが西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団された時のことから、ずっとどのように野球と接してきたか、ということで終始し、ぶっちゃけ、コアな話もありました(^^;。
ですので、ほとんどの方はあまり興味を持てなかったのか(苦笑)あまり反応もなかったのですが、俺の回りに座られていた、親父とその仲間の講師の先生方は野球好きな方が多かったようで、そのエリアだけウケがよかったんですね。
で、おそらくあの場で一番コアな野球ファンだったのは俺だと思うんですが(^^ゞ、作っているわけじゃなくて、本当に話が面白くてずっとゲラゲラ笑いながら、ずっと話を聞き入っていたんです。
そして講演終了後、ロビーで休憩されていた博一さんのところに、サインをもらいに行きました。
色紙なんて用意してなかったので、手帳にサインして頂いたのですが(^^ゞ。
そしたら、博一さんの方から声をかけて頂き、
「お兄さん、今日のメンバーの中では一番ウケてくれてたよな」
と、とてもご満悦の表情でサインして下さったんです(^^)。
「そりゃ、現役時代スタンドから博一さんを応援してましたから〜。」
と応えると、また笑顔になって、最後にガッチリと握手もして頂きました。
今でも、あのシーンはくっきりと、そしてあの博一さんの笑顔もハッキリと、覚えています。
たったこれだけのやり取りではありましたが、とても印象深いものでした。
ホエールズ・ベイスターズファンの多くの方がそうであるように、京浜東北線大宮方面行きの電車で蒲田駅に着くと、発車ベルに合わせて「かっ飛ばせ加藤 かっ飛ばせ加藤 かっ飛ばせ加藤〜」と心の中で歌ってます(笑)。
博一さんは、たまたま県組合講師の先生のお店に最初ご来店されていて、そのご縁で今回の講演をして頂いた、とのことでした。
それが、俺にとっていい機会を与えて下さったという巡り合わせに、心から感謝したいと思います。
もう、あの人なつっこい笑顔を見ることができないのかと思うと、本当に残念でなりません。
肺ガン、そして脚への転移…、相当苦しい思いをされたことと思います。
やっと、その辛さから解放されたんですものね。
どうか天国から、ベイスターズを、タイガースを、ライオンズを、そして日本野球界を見守っていて欲しいと思います。
安らかに、お眠り下さい。
合掌
そして、残念でなりません。
お通夜が執り行われる今日に降ったこの雪→雨は、きっとファンの涙雨じゃないか、なんて思ってます。
心からご冥福をお祈りしたいと思います。
博一さん、俺にとっては数少ない、直接お会いしてお話しもさせて頂いたことのある方でした。
残念ながら引退後、ですが。
2003年の秋、確か10月頃だったと思います。
組合の講師会・教育部という組織の合同研修会が、箱根湯本の「湯本富士屋ホテル」で行われ、その席上で博一さんの講演がある、という情報をキャッチしました。
俺は教育部でも講師でもないので全く無関係なのですが、ちょうどその頃は毎月新杉田の県本部で行われていた、大学科という教育プログラムに参加していて、いろんな先生方・事務員さんたちとも面識ができてきていた頃で、無理にお願いして講演だけ聞かせてもらうようにお願いしました。
その願いは聞き入れられ、はるばる1時間半の講演を聴くために、箱根湯本まで出かけて参りました。
講演のテーマは「プロ野球と私」だったかと思いますが、その話の内容は、博一さんが西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団された時のことから、ずっとどのように野球と接してきたか、ということで終始し、ぶっちゃけ、コアな話もありました(^^;。
ですので、ほとんどの方はあまり興味を持てなかったのか(苦笑)あまり反応もなかったのですが、俺の回りに座られていた、親父とその仲間の講師の先生方は野球好きな方が多かったようで、そのエリアだけウケがよかったんですね。
で、おそらくあの場で一番コアな野球ファンだったのは俺だと思うんですが(^^ゞ、作っているわけじゃなくて、本当に話が面白くてずっとゲラゲラ笑いながら、ずっと話を聞き入っていたんです。
そして講演終了後、ロビーで休憩されていた博一さんのところに、サインをもらいに行きました。
色紙なんて用意してなかったので、手帳にサインして頂いたのですが(^^ゞ。
そしたら、博一さんの方から声をかけて頂き、
「お兄さん、今日のメンバーの中では一番ウケてくれてたよな」
と、とてもご満悦の表情でサインして下さったんです(^^)。
「そりゃ、現役時代スタンドから博一さんを応援してましたから〜。」
と応えると、また笑顔になって、最後にガッチリと握手もして頂きました。
今でも、あのシーンはくっきりと、そしてあの博一さんの笑顔もハッキリと、覚えています。
たったこれだけのやり取りではありましたが、とても印象深いものでした。
ホエールズ・ベイスターズファンの多くの方がそうであるように、京浜東北線大宮方面行きの電車で蒲田駅に着くと、発車ベルに合わせて「かっ飛ばせ加藤 かっ飛ばせ加藤 かっ飛ばせ加藤〜」と心の中で歌ってます(笑)。
博一さんは、たまたま県組合講師の先生のお店に最初ご来店されていて、そのご縁で今回の講演をして頂いた、とのことでした。
それが、俺にとっていい機会を与えて下さったという巡り合わせに、心から感謝したいと思います。
もう、あの人なつっこい笑顔を見ることができないのかと思うと、本当に残念でなりません。
肺ガン、そして脚への転移…、相当苦しい思いをされたことと思います。
やっと、その辛さから解放されたんですものね。
どうか天国から、ベイスターズを、タイガースを、ライオンズを、そして日本野球界を見守っていて欲しいと思います。
安らかに、お眠り下さい。
合掌
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一番めし
2008年1月5日 食べること・飲むことさっき、テレビ朝日系列で「裸の少年スペシャル」をやってまして、七賢人の「一番めし」という特集をやってました。
で、自分の「一番めし」って何だろう…、って思って、考えてみました。
麺:
蕎麦っ喰いなのでやはり蕎麦なんだと思います。
一番のお気に入りは、嫁さんの実家のそばにある、静岡の「鷹匠つむらや」。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006711876/M0022011115/
静岡は水がいいので、お茶や酒だけでなく、蕎麦の名店も実は多いんです。
ここの蕎麦は、他では食べたことのない何とも言えない食感・喉ごしがあり、ダシとの相性もよくてホント、うまいんですよ(*^_^*)。
特に、静岡は「磯そば」という独特の食べ方があるようで、冷やしたぬきのような器に入った蕎麦に山盛りのねぎ、大根下ろし、刻み海苔を乗せ、ダシをかけて食べるんです。
それにエビ天を載せれば「エビ天磯」、イカ天を乗せれば「イカ天磯」って呼んだりするようです。
でも、俺的には一番のお気に入りは「鴨せいろ」。
これと磯自慢の組合せは最高♪
ラーメンとなると…、って考えたんですが、やっぱり六角家かな〜(^^;。
http://www.rokkakuya.com/
肉:
これもまた静岡なんですが、嫁さんの実家からほど近くにある「三笑亭」という、料亭。
http://www.at-s.com/BIN/GURU/GURU0040.asp?yid=C417926897
(ササキ様や石井琢朗が、静岡遠征の時によく来るそうです)
ここで、実は結納代わりの食事会をしたんですが、その時は雰囲気で緊張してしまって(義母とはそれまでに何度も会ってましたから、そういう緊張感はなかったんですけど(笑))味なんてわからなかったんだけど、結婚してからすき焼き用に買ってきてくれたお肉が、もう最高で…。
というのも、精肉店も経営してまして、そこでお店で出しているのと同じお肉が買えるんです。
HPを見ると「静岡県内産」と書かれてますが、松阪にも直営牧場を持っていて、松阪牛を比較的安く買えるらしいんです。
もうそのお肉の味は…、何ともいいようがない(*^_^*)。
(但し、その時はかなり大量に買ってきてくれたので、たくさん食べ過ぎて胃もたれしてしまいましたが(苦笑))
魚:
現在印象に強いのが、年に1回くらいは必ず行っている、腰越の「池田丸」。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~ikeda-m/iked_mise.htm
地魚を比較的安価で食べさせてくれる、いいお店です(^^*)。
でも、実は魚は、両親が釣ってくる「カワハギ」の刺身が、一番好きだったりします(^^ゞ。
もっとも、もっとお金を出していいお店に行けば、もっと美味しいものを食べられるのかもしれませんが、そんな経験も財力もないし(^^;、今まで37年弱の人生の中での話ですが。
実は、ラーメンも蕎麦も、地元のお店が子供の頃から食べ慣れてる味で、好きなんですけどね(^^ゞ。
※七賢人…岸朝子・道場六三郎・服部幸應・陳建一・田崎真也・平野レミ・土井善晴
で、自分の「一番めし」って何だろう…、って思って、考えてみました。
麺:
蕎麦っ喰いなのでやはり蕎麦なんだと思います。
一番のお気に入りは、嫁さんの実家のそばにある、静岡の「鷹匠つむらや」。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006711876/M0022011115/
静岡は水がいいので、お茶や酒だけでなく、蕎麦の名店も実は多いんです。
ここの蕎麦は、他では食べたことのない何とも言えない食感・喉ごしがあり、ダシとの相性もよくてホント、うまいんですよ(*^_^*)。
特に、静岡は「磯そば」という独特の食べ方があるようで、冷やしたぬきのような器に入った蕎麦に山盛りのねぎ、大根下ろし、刻み海苔を乗せ、ダシをかけて食べるんです。
それにエビ天を載せれば「エビ天磯」、イカ天を乗せれば「イカ天磯」って呼んだりするようです。
でも、俺的には一番のお気に入りは「鴨せいろ」。
これと磯自慢の組合せは最高♪
ラーメンとなると…、って考えたんですが、やっぱり六角家かな〜(^^;。
http://www.rokkakuya.com/
肉:
これもまた静岡なんですが、嫁さんの実家からほど近くにある「三笑亭」という、料亭。
http://www.at-s.com/BIN/GURU/GURU0040.asp?yid=C417926897
(ササキ様や石井琢朗が、静岡遠征の時によく来るそうです)
ここで、実は結納代わりの食事会をしたんですが、その時は雰囲気で緊張してしまって(義母とはそれまでに何度も会ってましたから、そういう緊張感はなかったんですけど(笑))味なんてわからなかったんだけど、結婚してからすき焼き用に買ってきてくれたお肉が、もう最高で…。
というのも、精肉店も経営してまして、そこでお店で出しているのと同じお肉が買えるんです。
HPを見ると「静岡県内産」と書かれてますが、松阪にも直営牧場を持っていて、松阪牛を比較的安く買えるらしいんです。
もうそのお肉の味は…、何ともいいようがない(*^_^*)。
(但し、その時はかなり大量に買ってきてくれたので、たくさん食べ過ぎて胃もたれしてしまいましたが(苦笑))
魚:
現在印象に強いのが、年に1回くらいは必ず行っている、腰越の「池田丸」。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~ikeda-m/iked_mise.htm
地魚を比較的安価で食べさせてくれる、いいお店です(^^*)。
でも、実は魚は、両親が釣ってくる「カワハギ」の刺身が、一番好きだったりします(^^ゞ。
もっとも、もっとお金を出していいお店に行けば、もっと美味しいものを食べられるのかもしれませんが、そんな経験も財力もないし(^^;、今まで37年弱の人生の中での話ですが。
実は、ラーメンも蕎麦も、地元のお店が子供の頃から食べ慣れてる味で、好きなんですけどね(^^ゞ。
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あけましておめでとうございます
2008年1月3日 食べること・飲むことということで、新年のご挨拶代わりに、年末年始の報告でも。
年末は、さすがに忙しかったです。
体力も限界でした(^^ゞ。
もっとも、年末がヒマになると、我々のギョーカイは非常に困ってしまうんですけどね。
とはいえ、ライフスタイルの変化で、「年末に理容室へ…」という方が減っているのは、事実のようです。
これは(我々にとって(?))マイナスな考えではなく、みなさん普段からご自分のローテーションでキレイにカットされている方が増えている証拠なんだと思います。
それでも年末に忙しいのは、ビミョーにローテーションをずらしてご来店頂けるからかな、と思ったりしてる訳です(^^ゞ。
そして、正月は2日だけお休みを頂きました。
元旦は、地元の総持寺に初詣、それから実家で新年会。
2日は、箱根駅伝を生麦あたりで観戦した後、帰省する妻と子供達を送り出して、お通夜に参列した後、中学の同期と会ったりしてました。
久しぶりに麻雀したり(^^;。
正月といえば、「朝から酒が飲める!」という貴重な期間でもありますが(笑)、昨年は2日で1升以上の酒を飲むという暴挙にでた自分ですが、今年は、というと…。
大晦日、仕事が終わった頃地元の同級生がビールを持って乱入、それに応戦するかのようにこちらもビールを購入して待機。
4本ずつ位飲んで帰宅、さらに「年越しちゃったそば」を食べながら、さらに熱燗を1合少々。
元旦は、朝ご飯の時に大きめのおちょこ1杯の日本酒を飲んで、総持寺の初詣帰り、テキ屋さんでワンカップの熱燗を1本。
実家の宴会では、缶ビールロング缶を2本飲んだあとに日本酒を2合くらい、さらに昼寝の後(^^;ビールを2本くらい飲んで帰宅。
2日は、駅伝を見ながら暖を取るつもりでワンカップ大を1本、昼は新横浜のサイゼリアで250MLの白ワインを、お通夜の席で冷酒を1本、友達と会ってるときに日本酒を2合くらい…。
結局、換算値で1升くらい飲んでますかね(^^;;;。
まぁこれだけ飲む機会があるのも、正月だけですから、と言い訳しておきます(^^;。
そして、本日から営業スタート。
今日は短縮営業させて頂いたので、今晩は嫁さんに文句も言われない、いいチャンスなので飲みに行こうかと…(笑)。
一応、まだ三が日ですから。ってまた言い訳(^^ゞ。
しかし、正月だから、というか、友達が誰もつかまりません(苦笑)。
1人で飲むのは好きなんですが、三が日だとやっているお店も限られちゃうんで、1人で行くと寂しいところばかり…。
まぁそんなこんなで、お酒な日記も増やしていこうと思ってますので(誰かさんのブログみたいになっちゃうかも(笑)(謎))、今年もよろしくお願い致します。m(__)m
年末は、さすがに忙しかったです。
体力も限界でした(^^ゞ。
もっとも、年末がヒマになると、我々のギョーカイは非常に困ってしまうんですけどね。
とはいえ、ライフスタイルの変化で、「年末に理容室へ…」という方が減っているのは、事実のようです。
これは(我々にとって(?))マイナスな考えではなく、みなさん普段からご自分のローテーションでキレイにカットされている方が増えている証拠なんだと思います。
それでも年末に忙しいのは、ビミョーにローテーションをずらしてご来店頂けるからかな、と思ったりしてる訳です(^^ゞ。
そして、正月は2日だけお休みを頂きました。
元旦は、地元の総持寺に初詣、それから実家で新年会。
2日は、箱根駅伝を生麦あたりで観戦した後、帰省する妻と子供達を送り出して、お通夜に参列した後、中学の同期と会ったりしてました。
久しぶりに麻雀したり(^^;。
正月といえば、「朝から酒が飲める!」という貴重な期間でもありますが(笑)、昨年は2日で1升以上の酒を飲むという暴挙にでた自分ですが、今年は、というと…。
大晦日、仕事が終わった頃地元の同級生がビールを持って乱入、それに応戦するかのようにこちらもビールを購入して待機。
4本ずつ位飲んで帰宅、さらに「年越しちゃったそば」を食べながら、さらに熱燗を1合少々。
元旦は、朝ご飯の時に大きめのおちょこ1杯の日本酒を飲んで、総持寺の初詣帰り、テキ屋さんでワンカップの熱燗を1本。
実家の宴会では、缶ビールロング缶を2本飲んだあとに日本酒を2合くらい、さらに昼寝の後(^^;ビールを2本くらい飲んで帰宅。
2日は、駅伝を見ながら暖を取るつもりでワンカップ大を1本、昼は新横浜のサイゼリアで250MLの白ワインを、お通夜の席で冷酒を1本、友達と会ってるときに日本酒を2合くらい…。
結局、換算値で1升くらい飲んでますかね(^^;;;。
まぁこれだけ飲む機会があるのも、正月だけですから、と言い訳しておきます(^^;。
そして、本日から営業スタート。
今日は短縮営業させて頂いたので、今晩は嫁さんに文句も言われない、いいチャンスなので飲みに行こうかと…(笑)。
一応、まだ三が日ですから。ってまた言い訳(^^ゞ。
しかし、正月だから、というか、友達が誰もつかまりません(苦笑)。
1人で飲むのは好きなんですが、三が日だとやっているお店も限られちゃうんで、1人で行くと寂しいところばかり…。
まぁそんなこんなで、お酒な日記も増やしていこうと思ってますので(誰かさんのブログみたいになっちゃうかも(笑)(謎))、今年もよろしくお願い致します。m(__)m
http://www.tressa-yokohama.jp/
「それなぁに? おいしいの?(・∀・*)」
という方も多いでしょうが、うちのサロンからほど近いところに、トヨタの複合施設が12月5日にオープンします。
場所は、この辺。
http://www.tressa-yokohama.jp/location.html
来月(っつーか来週)のオープンは、先行して北棟だけになりますが、こちらはトヨタ・ダイハツの全ディーラーをはじめ、各種レストラン・アウトドアショップ・スポーツショップ・スポーツジム等があるようです。
(詳細はこちら。http://www.tressa-yokohama.jp/shop.html)
近隣の方対象の内覧会が、30日から前日まで行われます。
そのチラシがサロンには入ってましたが、唯一行けそうな4日は、確か講習があった気が。
まぁ北棟のほうはぶっちゃけそんなに興味はないので(笑)。
南棟は来年3月にオープンしますが、こちらはラゾーナ川崎プラザにも入っているスーパーサンワを軸に、180店舗ほどのお店が入るようです。
しかし。
同時期(来年3月)、新横浜駅前のショッピングモールも、同時オープン。
こちらは、横浜高島屋のデパ地下がそのままコピーされたようなラインナップを中心に、現在ガード下にあるビックカメラ、JR東海系列のホテル「アソシア」など、かなり本格的な複合施設になりそうです。
電車でも行け、しかも交通アクセスが比較的いい新横浜駅前。
かたや、駅からの送迎は路線バス頼みで「車で来てね♪」という考えの、師岡。
(そのために、臨港バス・横浜市営バスはバス停の名前を変えるようですが。「師岡町」が「トレッサ横浜前」に、「師岡」が「トレッサ横浜」に、11月29日から変わるようです。以前から紛らわしい名前だったのに、もっとややこしくなりますね。orz)
さらには、既存の「ラゾーナ川崎プラザ」、「ららぽーと横浜」「ノースポート」「横浜ベイクォーター」「ジャックモール」・・・、と、この周辺には複合型ショッピングモールが多いんです。
っつーか、大杉。○| ̄|_
「サンワ」があるんで便利かな〜、とは思うんですが、自宅からだとバス1本ではちょっと行きにくいところだしなぁ。
「それなぁに? おいしいの?(・∀・*)」
という方も多いでしょうが、うちのサロンからほど近いところに、トヨタの複合施設が12月5日にオープンします。
場所は、この辺。
http://www.tressa-yokohama.jp/location.html
来月(っつーか来週)のオープンは、先行して北棟だけになりますが、こちらはトヨタ・ダイハツの全ディーラーをはじめ、各種レストラン・アウトドアショップ・スポーツショップ・スポーツジム等があるようです。
(詳細はこちら。http://www.tressa-yokohama.jp/shop.html)
近隣の方対象の内覧会が、30日から前日まで行われます。
そのチラシがサロンには入ってましたが、唯一行けそうな4日は、確か講習があった気が。
まぁ北棟のほうはぶっちゃけそんなに興味はないので(笑)。
南棟は来年3月にオープンしますが、こちらはラゾーナ川崎プラザにも入っているスーパーサンワを軸に、180店舗ほどのお店が入るようです。
しかし。
同時期(来年3月)、新横浜駅前のショッピングモールも、同時オープン。
こちらは、横浜高島屋のデパ地下がそのままコピーされたようなラインナップを中心に、現在ガード下にあるビックカメラ、JR東海系列のホテル「アソシア」など、かなり本格的な複合施設になりそうです。
電車でも行け、しかも交通アクセスが比較的いい新横浜駅前。
かたや、駅からの送迎は路線バス頼みで「車で来てね♪」という考えの、師岡。
(そのために、臨港バス・横浜市営バスはバス停の名前を変えるようですが。「師岡町」が「トレッサ横浜前」に、「師岡」が「トレッサ横浜」に、11月29日から変わるようです。以前から紛らわしい名前だったのに、もっとややこしくなりますね。orz)
さらには、既存の「ラゾーナ川崎プラザ」、「ららぽーと横浜」「ノースポート」「横浜ベイクォーター」「ジャックモール」・・・、と、この周辺には複合型ショッピングモールが多いんです。
っつーか、大杉。○| ̄|_
「サンワ」があるんで便利かな〜、とは思うんですが、自宅からだとバス1本ではちょっと行きにくいところだしなぁ。
「寺尾」というところ
2007年11月22日 地元の歴史 コメント (1)これを書く前に、「寺尾」でGoogle検索してみたら、約175万件ヒットしました(^^;。
やはり、現錣山親方の「寺尾関」のことが多いでしょうか。
そして「寺尾 地名」で検索してみたら、それでも約36,600件がヒット。
鶴見だけでなく、全国的にもあちこちにある地名ですよね。
(神奈川では、綾瀬にも「寺尾」ってありますよね)
鶴見の「寺尾」は、かなり古くからその地名が出てきます。
由来としては、現在の鶴見区東寺尾1丁目にある「松蔭寺」というお寺を中心として、その北側を「北寺尾」、西側を「西寺尾」、東側を「東寺尾」と呼んでいたのが始まりのようです。
なぜ「南寺尾」がないのか?
それは調べてみたんですが、よくわかりません(^^;。
実際には、松蔭寺の南側も現在の地名では「西寺尾」であることから、その3村(当時)でお寺を取り巻くことで、南の地名をつける意味はなかったのではないでしょうか。
現在鶴見にお住まいの方、あるいは鶴見をご存じの方なら、「あれ?、松蔭寺の北側は馬場じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、当初は「北寺尾村」だったんです。
室町時代、諏訪守馬之助というお殿様が、現在の馬場3丁目の山の上一帯に「寺尾城」を築きました。
そう、鶴見になんとお城があったんですね。
それ以来百数十年間にわたり、小田原北条氏に仕えながらこの地を治めていた、との記述があちこちで見受けられます。
このお殿様は、その名の通り出身は諏訪のようで、鶴見寺尾城を築く前に、実は川越にも「寺尾城」を築いているのです。
(川越にも「寺尾」という地名があり、双方が同じ名前になったのは偶然なのか、意図的なものなのかは定かではないようです)
川越も鶴見も、いずれも「出城」で天守閣があるような立派なお城ではなく、いわば「前線基地」のようなところだったそうです。
ところが、北条氏と共に遠征中、1575年に武田軍に滅ぼされ諏訪氏と共に寺尾城も落城してしまった、とのことです。
寺尾城については、歴史的文献が少ないことから謎の部分も多いようですが、その諏訪氏、実は馬術がかなりの苦手だったようです。
その“特訓”をするために作った“馬場”が、現在の馬場2〜3丁目の、臨港バスバス停「馬場谷」のあたりだった、という言い伝えがあり、そこから「馬場」という地名が成立した、と伝えられています。
ちなみに、その諏訪氏が実際に住んでいたのが、今の「諏訪坂」であると伝えられています。
現在、寺尾城があったとされているところの坂の下、宝蔵院(馬場4丁目)のそばには「殿山公園」が整備され、堀跡(空堀)も残されています。
自分が子供の頃には、何ヶ所かで堀跡が見られたものですが…。
鶴見の歴史、という観点でも中世の頃のことはこの寺尾城くらいしか伝聞がなく、当時はほとんどが田畑で埋め尽くされていた、と考えられると思います。
その名残は、獅子ヶ谷の横溝屋敷周辺や、旭小学校周辺にもわずかですが見られますね。
※参考
「寺尾城百話」(著者・出版元不明)
「鶴見区役所ホームページ 鶴見区の概要・歴史(3)」http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/info/rekisi/03.html
「城跡ほっつき歩き 寺尾城」http://www.geocities.jp/tsukayan0112/subdir-siropage/teraojou.html
やはり、現錣山親方の「寺尾関」のことが多いでしょうか。
そして「寺尾 地名」で検索してみたら、それでも約36,600件がヒット。
鶴見だけでなく、全国的にもあちこちにある地名ですよね。
(神奈川では、綾瀬にも「寺尾」ってありますよね)
鶴見の「寺尾」は、かなり古くからその地名が出てきます。
由来としては、現在の鶴見区東寺尾1丁目にある「松蔭寺」というお寺を中心として、その北側を「北寺尾」、西側を「西寺尾」、東側を「東寺尾」と呼んでいたのが始まりのようです。
なぜ「南寺尾」がないのか?
それは調べてみたんですが、よくわかりません(^^;。
実際には、松蔭寺の南側も現在の地名では「西寺尾」であることから、その3村(当時)でお寺を取り巻くことで、南の地名をつける意味はなかったのではないでしょうか。
現在鶴見にお住まいの方、あるいは鶴見をご存じの方なら、「あれ?、松蔭寺の北側は馬場じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、当初は「北寺尾村」だったんです。
室町時代、諏訪守馬之助というお殿様が、現在の馬場3丁目の山の上一帯に「寺尾城」を築きました。
そう、鶴見になんとお城があったんですね。
それ以来百数十年間にわたり、小田原北条氏に仕えながらこの地を治めていた、との記述があちこちで見受けられます。
このお殿様は、その名の通り出身は諏訪のようで、鶴見寺尾城を築く前に、実は川越にも「寺尾城」を築いているのです。
(川越にも「寺尾」という地名があり、双方が同じ名前になったのは偶然なのか、意図的なものなのかは定かではないようです)
川越も鶴見も、いずれも「出城」で天守閣があるような立派なお城ではなく、いわば「前線基地」のようなところだったそうです。
ところが、北条氏と共に遠征中、1575年に武田軍に滅ぼされ諏訪氏と共に寺尾城も落城してしまった、とのことです。
寺尾城については、歴史的文献が少ないことから謎の部分も多いようですが、その諏訪氏、実は馬術がかなりの苦手だったようです。
その“特訓”をするために作った“馬場”が、現在の馬場2〜3丁目の、臨港バスバス停「馬場谷」のあたりだった、という言い伝えがあり、そこから「馬場」という地名が成立した、と伝えられています。
ちなみに、その諏訪氏が実際に住んでいたのが、今の「諏訪坂」であると伝えられています。
現在、寺尾城があったとされているところの坂の下、宝蔵院(馬場4丁目)のそばには「殿山公園」が整備され、堀跡(空堀)も残されています。
自分が子供の頃には、何ヶ所かで堀跡が見られたものですが…。
鶴見の歴史、という観点でも中世の頃のことはこの寺尾城くらいしか伝聞がなく、当時はほとんどが田畑で埋め尽くされていた、と考えられると思います。
その名残は、獅子ヶ谷の横溝屋敷周辺や、旭小学校周辺にもわずかですが見られますね。
※参考
「寺尾城百話」(著者・出版元不明)
「鶴見区役所ホームページ 鶴見区の概要・歴史(3)」http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/info/rekisi/03.html
「城跡ほっつき歩き 寺尾城」http://www.geocities.jp/tsukayan0112/subdir-siropage/teraojou.html
久しぶりに、仕事関係のことを書いてみたいと思います。
神奈川県の理容組合は、今年で創立50周年を迎えました。
そこで、組合員向けのイベントとして「理容フェスタ50」というお祭りを、昨日20日に関内の横浜文化体育館で開催しました。
その前日準備として、月曜日は、青年部女性部が行うバザーの提供品を組合の会館から会場の横浜文化体育館(文体)へ運ぶため、青年部女性部で2トントラックを借りて、運転手。
会館から荷物を運搬して、そのまま文体で全体進行の打合せ。
打合せが終わる頃には、搬入されていた荷物はキレイに並べられていました(^^)。
そして夜は、今回の組合50周年にちなんだ、支部のパーティ。
「人と歴史に感謝する集い」というタイトルで、過去の写真を映像化したり、ビデオを見たりする、過去を振り返ってこれからの組合活動を元気よくやっていきましょう、というイベントでした。
このために、準備もそこそこに切り上げてしまって現場のみなさんに迷惑をかけ、こういう(組合役員)仕事をしていることの辛さを痛感した日でもありました。
そして昨日の当日。
9時に文体集合で、原チャリで突撃。
バスで駅へ出るくらいの時間で、東神奈川まで行っちゃうから、やっぱり原チャリは速い♪
そして、開門と同時に中へ入り、早速準備に追われます。
俺の、今回の仕事は全体進行係で、ステージを中心とした全体進行の台本を書かせて頂きました。
そもそも、なんでこの役目が俺に来たのかは、よくわからないんだけど…。orz
おそらく、チョキちゃんナイターでの行動を買われたのか。○| ̄|_
司会は、青年部のMさんと、先日も日記で書いた、フリーアナウンサーの鈴木裕子さん。
http://www.geocities.jp/narratoryuuka/
そして俺は、幕間に各ブースなどをレポートしたり、観客にインタビューしたりするレポーターの役目もやることになりました。
FM横浜の「はぁ〜い、藤田です」で一部お馴染みの、藤田くんのパロディをやろう、と(^^;。
(でも実は、最近ほとんどFM横浜を聞いてません(^^ゞ)
全体の流れは、ステージでの各団体出演があり、その入れ替えが30〜45分あり、最後に抽選会、それとは別に、フロアーでは各支部や企業がいろんな展示をしたり、飲食物の販売もしたり、と、すっかり「フェスタ」の名にふさわしい、お祭り的な雰囲気でした。
出演団体は、
・横浜市消防音楽隊&ポートエンジェルス119
・川久保秀一&合津知里 コンサート
・ハッピィ吉沢 パントマイムショー
・講師会ヘアーショー
・浅草サンバカーニバル優勝チーム「ウニアン・ドス・アマドーリス」によるサンバ
・よこはまカーニバル出演チームの「子鳩子兎(しぐねっと)横浜百姫隊(よこはまびゃっこたい)」による、ハマこい踊り
と、盛りだくさんでした。
しかし、我々進行係はゆっくりステージを見る余裕もなく、幕間はレポートやインタビュー、団体出演中はその次の団体との打合せや、その他の打合せ、伝達をしたり。
特に俺は、全体のタイムキープも考えながら、レポートでは階段を走って上り下りしたり、気が付けばかなりハードなお仕事でした。orz
すでに、太ももが…(苦笑)。
サンバとハマこいの2チームは、事前の打ち合わせがほとんどできず、会場入りしてからの打合せだったのでほぼぶっつけ本番状態。
しかしその辺は経験豊富な団体、見事にこなして下さいました(^^)。
この辺の打合せが終わった段階で、やっと全体の流れが見えてきて、ちょっとホッとして目が潤んでしまったり(^^;ゞ。
出演団体の入れ替えが比較的スムーズだったので、全体に“巻き進行”で、むしろ幕間では時間調整のためにレポートを多くしたり、アドリブでいろんな裏話を入れてみたり、と、ボキャブラリーも少なく、もっともこんなことをやったことのない俺は、すでにいっぱいいっぱい。
レポートも、早口にならないようにだけ心がけ、あとは「行ってこい」状態(^^;;;。
同じくレポートもして下さった鈴木さん、さすがはプロ、インタビューの引き出し方もうまいし、ただただ感服するのみでした。
鈴木さんのブログにも、昨日のことが書かれています。
写真載ってる…(^^;;;。
http://oyasumikousaten.blog75.fc2.com/blog-entry-342.html
ってことで、昨日は、前半はシーレックスの、後半はベイスターズのユニフォームを着て仕事をしておりました(^^ゞ。
予定よりも30分くらい早く終わり、撤収もしてみなさんは打ち上げに流れて行かれましたが、原チャリだったのでササッと帰宅。
一度実家に寄ったりしましたが、グッタリでした(^^;。
ところで。
今回、前日準備中にも文体のスタッフの方から「佑太さんって、こういう演出のお仕事をされてるんですか?」とお言葉を頂いたり、当日も多くの方から「佑太くん、仕事間違えてるよ。こういう仕事の方がいいんじゃない?」など、激励等のお声をかけて頂きました。
とても励みになりましたが、
俺の本職は、あくまでも理容師ですから(笑)。
神奈川県の理容組合は、今年で創立50周年を迎えました。
そこで、組合員向けのイベントとして「理容フェスタ50」というお祭りを、昨日20日に関内の横浜文化体育館で開催しました。
その前日準備として、月曜日は、青年部女性部が行うバザーの提供品を組合の会館から会場の横浜文化体育館(文体)へ運ぶため、青年部女性部で2トントラックを借りて、運転手。
会館から荷物を運搬して、そのまま文体で全体進行の打合せ。
打合せが終わる頃には、搬入されていた荷物はキレイに並べられていました(^^)。
そして夜は、今回の組合50周年にちなんだ、支部のパーティ。
「人と歴史に感謝する集い」というタイトルで、過去の写真を映像化したり、ビデオを見たりする、過去を振り返ってこれからの組合活動を元気よくやっていきましょう、というイベントでした。
このために、準備もそこそこに切り上げてしまって現場のみなさんに迷惑をかけ、こういう(組合役員)仕事をしていることの辛さを痛感した日でもありました。
そして昨日の当日。
9時に文体集合で、原チャリで突撃。
バスで駅へ出るくらいの時間で、東神奈川まで行っちゃうから、やっぱり原チャリは速い♪
そして、開門と同時に中へ入り、早速準備に追われます。
俺の、今回の仕事は全体進行係で、ステージを中心とした全体進行の台本を書かせて頂きました。
そもそも、なんでこの役目が俺に来たのかは、よくわからないんだけど…。orz
おそらく、チョキちゃんナイターでの行動を買われたのか。○| ̄|_
司会は、青年部のMさんと、先日も日記で書いた、フリーアナウンサーの鈴木裕子さん。
http://www.geocities.jp/narratoryuuka/
そして俺は、幕間に各ブースなどをレポートしたり、観客にインタビューしたりするレポーターの役目もやることになりました。
FM横浜の「はぁ〜い、藤田です」で一部お馴染みの、藤田くんのパロディをやろう、と(^^;。
(でも実は、最近ほとんどFM横浜を聞いてません(^^ゞ)
全体の流れは、ステージでの各団体出演があり、その入れ替えが30〜45分あり、最後に抽選会、それとは別に、フロアーでは各支部や企業がいろんな展示をしたり、飲食物の販売もしたり、と、すっかり「フェスタ」の名にふさわしい、お祭り的な雰囲気でした。
出演団体は、
・横浜市消防音楽隊&ポートエンジェルス119
・川久保秀一&合津知里 コンサート
・ハッピィ吉沢 パントマイムショー
・講師会ヘアーショー
・浅草サンバカーニバル優勝チーム「ウニアン・ドス・アマドーリス」によるサンバ
・よこはまカーニバル出演チームの「子鳩子兎(しぐねっと)横浜百姫隊(よこはまびゃっこたい)」による、ハマこい踊り
と、盛りだくさんでした。
しかし、我々進行係はゆっくりステージを見る余裕もなく、幕間はレポートやインタビュー、団体出演中はその次の団体との打合せや、その他の打合せ、伝達をしたり。
特に俺は、全体のタイムキープも考えながら、レポートでは階段を走って上り下りしたり、気が付けばかなりハードなお仕事でした。orz
すでに、太ももが…(苦笑)。
サンバとハマこいの2チームは、事前の打ち合わせがほとんどできず、会場入りしてからの打合せだったのでほぼぶっつけ本番状態。
しかしその辺は経験豊富な団体、見事にこなして下さいました(^^)。
この辺の打合せが終わった段階で、やっと全体の流れが見えてきて、ちょっとホッとして目が潤んでしまったり(^^;ゞ。
出演団体の入れ替えが比較的スムーズだったので、全体に“巻き進行”で、むしろ幕間では時間調整のためにレポートを多くしたり、アドリブでいろんな裏話を入れてみたり、と、ボキャブラリーも少なく、もっともこんなことをやったことのない俺は、すでにいっぱいいっぱい。
レポートも、早口にならないようにだけ心がけ、あとは「行ってこい」状態(^^;;;。
同じくレポートもして下さった鈴木さん、さすがはプロ、インタビューの引き出し方もうまいし、ただただ感服するのみでした。
鈴木さんのブログにも、昨日のことが書かれています。
写真載ってる…(^^;;;。
http://oyasumikousaten.blog75.fc2.com/blog-entry-342.html
ってことで、昨日は、前半はシーレックスの、後半はベイスターズのユニフォームを着て仕事をしておりました(^^ゞ。
予定よりも30分くらい早く終わり、撤収もしてみなさんは打ち上げに流れて行かれましたが、原チャリだったのでササッと帰宅。
一度実家に寄ったりしましたが、グッタリでした(^^;。
ところで。
今回、前日準備中にも文体のスタッフの方から「佑太さんって、こういう演出のお仕事をされてるんですか?」とお言葉を頂いたり、当日も多くの方から「佑太くん、仕事間違えてるよ。こういう仕事の方がいいんじゃない?」など、激励等のお声をかけて頂きました。
とても励みになりましたが、
俺の本職は、あくまでも理容師ですから(笑)。
唐突ですが、「関内が埋め立て地だ」、ってみなさん、ご存じでした?
というか、信じられます?(^^;
現在の、大岡川と首都高速狩場線に挟まれた“釣り鐘”の土地が、江戸時代に埋め立てられた「吉田新田」です。
但し、海に近い、現在の「コンテナ道路(国道133号線)」と、「海岸通り(山下公園前の通り)」に挟まれた、県庁があるエリアは、もともとあった土地でした。
この部分の地形が、山手の方から「横に伸びる濱(浜)」だったことが、現在の「横浜」の地名の由来になっており、当時はこの辺が「横濱村」と呼ばれていました。
その、釣り鐘状の入り江を埋め立て、耕地にしようと江戸の商人「吉田勘兵衛」が、明暦2(1656)年に埋め立て事業を開始しました。
その事業は、当時の技術で10年以上もかかる大工事・難工事だったそうです。
そのため、当時行われていた「人柱」がこの工事でも行われたそうですが、この吉田家に使えていた女中「おさん」が、自ら人柱に立つ、と名乗り出て、吉田勘兵衛が止めても聞かずに立ったんだとか。
その「おさん」を祭っているのが、伊勢佐木町の商店街をずっと歩いていくとある、「お三の宮」こと、「日枝神社」だそうです。
(「お三の宮」の名前の由来には、諸説あるようですが)
当時(1650年以降)、江戸幕府の政治も落ち着き始め、それまでの天下統一のために費やされてきた軍力整備がなくなり、庶民の生活、ひいては国力増加のため、各地で新田開発が行われたそうです。
さらにその背景としては、幕府が置かれた江戸の人口が、幕府が開かれた時には10〜20万人ほどだったところが、その50年後には7〜80万人にもふくれあがり、その食糧確保、ということもあったんだと思います。
余談ですが、おそらく鶴見の潮田地域(鶴見駅の東側、鶴見川の反対側の地域)も、この頃に埋め立てられたと思います。(江戸初期の地図では、この辺は海になっていたため)
どのような技術が投入されたのかということについては、残念ながら詳細な記述が関東大震災でなくなってしまったそうでわからないということですが、いろんなサイトを見て回るとそれらの全貌が見えてくると思います。
興味を持たれた方は、是非ご覧になってみてはいかがでしょうか?(^^)
また、この埋め立ても含め、福音館書店刊の「ある都市のれきし −横浜・330年−」という本には、同じ視点から横浜を眺め続けたイラストが、時系列的に掲載されていて、小学生でもわかりやすく読めると思います。
(うちのサロンに置いてあります(笑))
横浜の歴史を知るためには、とてもわかりやすい本だと思いますよ!
※参考
「ある都市のれきし −横浜・330年−」 北沢猛(文) 内山正(絵) 福音館書店
「有鄰 No.468 座談会 吉田新田と横浜の埋め立て」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_468/yurin.html)(有隣堂のサイトです)
というか、信じられます?(^^;
現在の、大岡川と首都高速狩場線に挟まれた“釣り鐘”の土地が、江戸時代に埋め立てられた「吉田新田」です。
但し、海に近い、現在の「コンテナ道路(国道133号線)」と、「海岸通り(山下公園前の通り)」に挟まれた、県庁があるエリアは、もともとあった土地でした。
この部分の地形が、山手の方から「横に伸びる濱(浜)」だったことが、現在の「横浜」の地名の由来になっており、当時はこの辺が「横濱村」と呼ばれていました。
その、釣り鐘状の入り江を埋め立て、耕地にしようと江戸の商人「吉田勘兵衛」が、明暦2(1656)年に埋め立て事業を開始しました。
その事業は、当時の技術で10年以上もかかる大工事・難工事だったそうです。
そのため、当時行われていた「人柱」がこの工事でも行われたそうですが、この吉田家に使えていた女中「おさん」が、自ら人柱に立つ、と名乗り出て、吉田勘兵衛が止めても聞かずに立ったんだとか。
その「おさん」を祭っているのが、伊勢佐木町の商店街をずっと歩いていくとある、「お三の宮」こと、「日枝神社」だそうです。
(「お三の宮」の名前の由来には、諸説あるようですが)
当時(1650年以降)、江戸幕府の政治も落ち着き始め、それまでの天下統一のために費やされてきた軍力整備がなくなり、庶民の生活、ひいては国力増加のため、各地で新田開発が行われたそうです。
さらにその背景としては、幕府が置かれた江戸の人口が、幕府が開かれた時には10〜20万人ほどだったところが、その50年後には7〜80万人にもふくれあがり、その食糧確保、ということもあったんだと思います。
余談ですが、おそらく鶴見の潮田地域(鶴見駅の東側、鶴見川の反対側の地域)も、この頃に埋め立てられたと思います。(江戸初期の地図では、この辺は海になっていたため)
どのような技術が投入されたのかということについては、残念ながら詳細な記述が関東大震災でなくなってしまったそうでわからないということですが、いろんなサイトを見て回るとそれらの全貌が見えてくると思います。
興味を持たれた方は、是非ご覧になってみてはいかがでしょうか?(^^)
また、この埋め立ても含め、福音館書店刊の「ある都市のれきし −横浜・330年−」という本には、同じ視点から横浜を眺め続けたイラストが、時系列的に掲載されていて、小学生でもわかりやすく読めると思います。
(うちのサロンに置いてあります(笑))
横浜の歴史を知るためには、とてもわかりやすい本だと思いますよ!
※参考
「ある都市のれきし −横浜・330年−」 北沢猛(文) 内山正(絵) 福音館書店
「有鄰 No.468 座談会 吉田新田と横浜の埋め立て」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_468/yurin.html)(有隣堂のサイトです)
臨港バスの歴史について書いてみたいと思います。
そのためには、鶴見線についても触れないわけにいかないので、例によって長文になると思います(^^;。
大正13(1924)年、京浜工業地帯の貨物輸送を目的に、この土地を埋め立てた浅野総一郎ほか数名によって、鶴見線の前身である私鉄の「鶴見臨港鉄道株式会社」が発足し、翌年の大正15(1926)年に貨物営業を、浜川崎〜弁天橋、武蔵白石〜大川間の路線で開業しました。
その後路線を省線(当時)の鶴見駅まで乗り入れ、旅客営業も開始したのですが、実は貨物営業を開始する前年の大正14(1925)年には、「海岸電気軌道」という路面電車が、現在の鶴見線の内側を走る路線で開業していたんです。
その路線は、現在「開かずの踏切」として全国的に(?)有名である総持寺踏切のところにあった、京浜電車(当時。現在の京急電鉄)の「総持寺」駅を基点に、下野谷を経由して現在の産業道路を走り、京浜電車大師線の「川崎大師」駅までを結ぶものでした。
この「海岸電気軌道」は、実は京浜電車の子会社だったんです。
ライバル会社となる「鶴見臨港鉄道」が鶴見駅延伸、旅客営業許可の申請を出したことには当然のように反対運動を起こしましたが、結果的に「海岸電気軌道」は「鶴見臨港鉄道」に買収され、そして「鶴見臨港鉄道」は昭和5(1930)年に仮駅で鶴見延伸、そして旅客営業を開始しました。
それとほぼ同時、昭和6(1931)年にはバス事業を開始し、綱島温泉(当時)への観光客の足の確保、その沿線に住んでいた工業地帯従業員の足の確保などとして、鶴見駅西口から綱島までの路線が開業しました。
これが、実質的に臨港バスの初期路線になるのですが、この時はまだ臨港鉄道のバス部門でした。
昭和12(1937)年、“産業道路”整備の話が持ち上がり、ほとんどの区間が重なってしまう「海岸電気軌道」は撤去されることになり、その代わりに鶴見〜川崎大師間のバス路線免許が与えられました。
既存のバス部門を分社化し、この免許路線を加えて発足したのが、「鶴見川崎臨港バス」で、この年が現在の「川崎鶴見臨港バス」の開業年となり、それから今年が70年目を迎えた、という流れです。
「鶴見川崎臨港バス」は、翌年には「川崎乗合自動車」を買収して社名を現在の「川崎鶴見臨港バス」に変更、その後も近隣の乗合自動車会社を買収していき現在の規模になりました。
余談ですが、当時は京浜電鉄とライバルだった「鶴見臨港鉄道」、現在は「東亜建設工業」(京浜工業地帯を埋め立てた「鶴見埋築株式会社」の現社名)のグループ会社として、実はまだ存在しています。
社名はそのままですが、実質的には鶴見駅西口の「ミナール」ビルの管理会社として、東亜建設工業から出向されている社員さん数名(一説には1名だけとか)で運営されています。
これは、戦中国鉄に買収された際、「戦後また払い下げるから会社は存続しておくように」という命を受けてのものだったのですが、結果的に払い下げは実現せず、そのまま会社だけが残った、ということなのです。
その傘下だった「川崎鶴見臨港バス」は、ライバルであった京浜電鉄(→現・京急電鉄)に買収されたのか、現在は京急グループの一角を担うバス会社となっています。
その辺の詳細がよくわかりません(^^;。
主にバスを巡る流れで書いてきましたが、ついでに(^^ゞ。
「鶴見臨港鉄道」、実は延伸の計画がありました。
現在の鶴見駅から、矢向・尻手方面へ延伸し、南武鉄道(現在の南武線。これも浅野グループ企業でした。)と連絡して旅客や砂利などの貨物輸送を円滑に行う計画だったそうです。
実際、鶴見駅から鶴見川までは土地を買収したものの、国鉄による買収のために計画は頓挫してしまった、とのこと。
この他にも、浜川崎から浮島・穴守稲荷・羽田・大森までの延伸計画もあったようです。(一部は「神奈川臨海鉄道」(貨物線)として、別事業者によって実施されています。)
その名残として、現在も鶴見駅西口の、ミナールから末吉大通りへ向かうJRの線路際の土地は、東亜建設工業が所有しているところもあります。(寮もあったりします)
この計画が実施されていたら、鶴見東部の交通の便は、格段によかったでしょうね(^^;。
※参考
「鶴見線物語」 サトウマコト著 (株)230クラブ新聞社
そのためには、鶴見線についても触れないわけにいかないので、例によって長文になると思います(^^;。
大正13(1924)年、京浜工業地帯の貨物輸送を目的に、この土地を埋め立てた浅野総一郎ほか数名によって、鶴見線の前身である私鉄の「鶴見臨港鉄道株式会社」が発足し、翌年の大正15(1926)年に貨物営業を、浜川崎〜弁天橋、武蔵白石〜大川間の路線で開業しました。
その後路線を省線(当時)の鶴見駅まで乗り入れ、旅客営業も開始したのですが、実は貨物営業を開始する前年の大正14(1925)年には、「海岸電気軌道」という路面電車が、現在の鶴見線の内側を走る路線で開業していたんです。
その路線は、現在「開かずの踏切」として全国的に(?)有名である総持寺踏切のところにあった、京浜電車(当時。現在の京急電鉄)の「総持寺」駅を基点に、下野谷を経由して現在の産業道路を走り、京浜電車大師線の「川崎大師」駅までを結ぶものでした。
この「海岸電気軌道」は、実は京浜電車の子会社だったんです。
ライバル会社となる「鶴見臨港鉄道」が鶴見駅延伸、旅客営業許可の申請を出したことには当然のように反対運動を起こしましたが、結果的に「海岸電気軌道」は「鶴見臨港鉄道」に買収され、そして「鶴見臨港鉄道」は昭和5(1930)年に仮駅で鶴見延伸、そして旅客営業を開始しました。
それとほぼ同時、昭和6(1931)年にはバス事業を開始し、綱島温泉(当時)への観光客の足の確保、その沿線に住んでいた工業地帯従業員の足の確保などとして、鶴見駅西口から綱島までの路線が開業しました。
これが、実質的に臨港バスの初期路線になるのですが、この時はまだ臨港鉄道のバス部門でした。
昭和12(1937)年、“産業道路”整備の話が持ち上がり、ほとんどの区間が重なってしまう「海岸電気軌道」は撤去されることになり、その代わりに鶴見〜川崎大師間のバス路線免許が与えられました。
既存のバス部門を分社化し、この免許路線を加えて発足したのが、「鶴見川崎臨港バス」で、この年が現在の「川崎鶴見臨港バス」の開業年となり、それから今年が70年目を迎えた、という流れです。
「鶴見川崎臨港バス」は、翌年には「川崎乗合自動車」を買収して社名を現在の「川崎鶴見臨港バス」に変更、その後も近隣の乗合自動車会社を買収していき現在の規模になりました。
余談ですが、当時は京浜電鉄とライバルだった「鶴見臨港鉄道」、現在は「東亜建設工業」(京浜工業地帯を埋め立てた「鶴見埋築株式会社」の現社名)のグループ会社として、実はまだ存在しています。
社名はそのままですが、実質的には鶴見駅西口の「ミナール」ビルの管理会社として、東亜建設工業から出向されている社員さん数名(一説には1名だけとか)で運営されています。
これは、戦中国鉄に買収された際、「戦後また払い下げるから会社は存続しておくように」という命を受けてのものだったのですが、結果的に払い下げは実現せず、そのまま会社だけが残った、ということなのです。
その傘下だった「川崎鶴見臨港バス」は、ライバルであった京浜電鉄(→現・京急電鉄)に買収されたのか、現在は京急グループの一角を担うバス会社となっています。
その辺の詳細がよくわかりません(^^;。
主にバスを巡る流れで書いてきましたが、ついでに(^^ゞ。
「鶴見臨港鉄道」、実は延伸の計画がありました。
現在の鶴見駅から、矢向・尻手方面へ延伸し、南武鉄道(現在の南武線。これも浅野グループ企業でした。)と連絡して旅客や砂利などの貨物輸送を円滑に行う計画だったそうです。
実際、鶴見駅から鶴見川までは土地を買収したものの、国鉄による買収のために計画は頓挫してしまった、とのこと。
この他にも、浜川崎から浮島・穴守稲荷・羽田・大森までの延伸計画もあったようです。(一部は「神奈川臨海鉄道」(貨物線)として、別事業者によって実施されています。)
その名残として、現在も鶴見駅西口の、ミナールから末吉大通りへ向かうJRの線路際の土地は、東亜建設工業が所有しているところもあります。(寮もあったりします)
この計画が実施されていたら、鶴見東部の交通の便は、格段によかったでしょうね(^^;。
※参考
「鶴見線物語」 サトウマコト著 (株)230クラブ新聞社
「横浜市鶴見区」というところ
2007年11月8日 地元の歴史 コメント (5)別ブログで、地元の歴史について書き始めたので、それをこちらにも転記しておきたいと思います。
今回は、「横浜市鶴見区」について。
(行政区分に限って書いてみたいと思います。歴史的なことはまたいずれ(^^;)
奈良・平安の頃、律令制度が出来た頃から、この辺は「橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれ、江戸時代は幕府の直轄地でした。
今、自分が住んでいる寺尾・馬場というところは、江戸時代には「旭村」という大きな村になっていました。
「旭」という字を解体すると、「九つの日」と読めるように、9つの小さな村(北寺尾村・馬場村・東寺尾村・駒岡村など)が合併してできたんだそうです。
現在、この「旭」というのは地名としては存在しておらず、自分の母校である「横浜市立旭小学校」や、東電の「旭変電所」にその名残が存在する程度です。
江戸時代から明治・大正にかけてもずっとこの辺は「旭村」でしたが、東海道(現在の旧東海道・国道15号線一帯)を中心としたエリアが「鶴見町」、鶴見川を海側に渡ったあたりは「潮田村」と呼ばれ、現在の「鶴見区」は3つの町村に別れていたわけです。
(川崎側の矢向・尻手方面は定かではありません(^^;が、おそらくそのいずれかに属していたものと思います。)
大正末期あたりから、すでに誕生していた「横浜市」への編入の機運が高まり、その3町村の代表が集まって協議をしたらしいのです。
「横浜市」へ編入するのか、それとも「鶴見市」を立ち上げるのか…。
(参考資料には書かれていませんが、おそらく当時発足していた「川崎市」への編入も、協議されたと推測はできます)
というのも、鶴見にはすでに京浜工業地帯が成立しており、単独行政を行ってもそれに見合う税収も見込めたから、だと俺は推測しています。
また、京浜工業地帯は行政区分としては「川崎市」(当時は現在の川崎区の一部・幸区の一部が「川崎市」でした)ともつながりが深く、「横浜市」への編入よりも、独自行政、もしくは「川崎市」への編入の方が、うま味が大きかったんじゃないかと思うんですよね。
様々な議論が行われたでしょうが、結果として3町村は「横浜市」への編入を決め、3町村が合併して「横浜市鶴見区」が昭和2年(1927年)に誕生しました。
ちなみに、今年は区制80周年の節目の年になります。
歴史の好きなお客様と、こういう話をよくしています(^^ゞ。
その時にいつも思うんですけど、仮にその時、「鶴見市」になっていたらどうなったんだろう、と。
当時まだ現在の「港北区」は「横浜市」にも「川崎市」にも属していませんでしたから、その当たりも巻き込んで、埼玉の蕨市のような行政体になっていたのかな〜、とか、結果的に川崎か横浜か、どちらかの行政体と合併していたのかな〜、とか、いろいろ妄想しています(^^;。
※参考
鶴見区役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/
横浜市役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/
間違い等ありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
今回は、「横浜市鶴見区」について。
(行政区分に限って書いてみたいと思います。歴史的なことはまたいずれ(^^;)
奈良・平安の頃、律令制度が出来た頃から、この辺は「橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれ、江戸時代は幕府の直轄地でした。
今、自分が住んでいる寺尾・馬場というところは、江戸時代には「旭村」という大きな村になっていました。
「旭」という字を解体すると、「九つの日」と読めるように、9つの小さな村(北寺尾村・馬場村・東寺尾村・駒岡村など)が合併してできたんだそうです。
現在、この「旭」というのは地名としては存在しておらず、自分の母校である「横浜市立旭小学校」や、東電の「旭変電所」にその名残が存在する程度です。
江戸時代から明治・大正にかけてもずっとこの辺は「旭村」でしたが、東海道(現在の旧東海道・国道15号線一帯)を中心としたエリアが「鶴見町」、鶴見川を海側に渡ったあたりは「潮田村」と呼ばれ、現在の「鶴見区」は3つの町村に別れていたわけです。
(川崎側の矢向・尻手方面は定かではありません(^^;が、おそらくそのいずれかに属していたものと思います。)
大正末期あたりから、すでに誕生していた「横浜市」への編入の機運が高まり、その3町村の代表が集まって協議をしたらしいのです。
「横浜市」へ編入するのか、それとも「鶴見市」を立ち上げるのか…。
(参考資料には書かれていませんが、おそらく当時発足していた「川崎市」への編入も、協議されたと推測はできます)
というのも、鶴見にはすでに京浜工業地帯が成立しており、単独行政を行ってもそれに見合う税収も見込めたから、だと俺は推測しています。
また、京浜工業地帯は行政区分としては「川崎市」(当時は現在の川崎区の一部・幸区の一部が「川崎市」でした)ともつながりが深く、「横浜市」への編入よりも、独自行政、もしくは「川崎市」への編入の方が、うま味が大きかったんじゃないかと思うんですよね。
様々な議論が行われたでしょうが、結果として3町村は「横浜市」への編入を決め、3町村が合併して「横浜市鶴見区」が昭和2年(1927年)に誕生しました。
ちなみに、今年は区制80周年の節目の年になります。
歴史の好きなお客様と、こういう話をよくしています(^^ゞ。
その時にいつも思うんですけど、仮にその時、「鶴見市」になっていたらどうなったんだろう、と。
当時まだ現在の「港北区」は「横浜市」にも「川崎市」にも属していませんでしたから、その当たりも巻き込んで、埼玉の蕨市のような行政体になっていたのかな〜、とか、結果的に川崎か横浜か、どちらかの行政体と合併していたのかな〜、とか、いろいろ妄想しています(^^;。
※参考
鶴見区役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/
横浜市役所ホームページ http://www.city.yokohama.jp/
間違い等ありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
ザ・プレミアムモルツドリームマッチ
2007年7月25日 プロ野球一昨年以来なので2年ぶりになりましたが、久しぶりに行ってきました(^^)。
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/dreammatch/
当初は懐かしい選手が活躍することもさながら、生ビールが安く飲める当初は1杯300円でした。その後、寄付金として100円上がりましたがそれでも400円!のが魅力で行き始めたようなものでしたが(^^;、引退後数年経っているとはいえ、懐かしい選手達がプレーするのを見るのが魅力的ではないわけがありません。
もともと野球に関して記憶力が薄い(集中して見てないのかも(^^;)のですが、「先発 阿波野」でドキドキ、対戦相手の「甲子園ヒーローズ2007」の「4番 サード 金村」には「プレーできんのかぁ〜!」とヤジともブーイングともとれる(笑)声援を送り、試合前からうまいビールも入ってテンションは最高潮♪
村田兆治登板には140キロに期待を寄せ(今年は残念ながらMAX139キロでしたが)、達ちゃん駒田さんの打席にはホームランを期待し、槇原対バースにはバックスクリーンへのホームランコール、東尾対山本浩二・田淵に盛り上がり、9回2アウトともなれば自発的に「江夏!」コール…。
試合そのものも、点の取り合い、同点からザ・プレミアムモルツ球団片岡の勝ち越しタイムリーが出るなど、このカードにしては接戦で内容の濃い試合だったと思います。
初回から試合終了まで、見る方も気の抜けない、楽しい試合でした。
ちなみにビールは4杯でした(笑)。
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/dreammatch/
当初は懐かしい選手が活躍することもさながら、生ビールが安く飲める当初は1杯300円でした。その後、寄付金として100円上がりましたがそれでも400円!のが魅力で行き始めたようなものでしたが(^^;、引退後数年経っているとはいえ、懐かしい選手達がプレーするのを見るのが魅力的ではないわけがありません。
もともと野球に関して記憶力が薄い(集中して見てないのかも(^^;)のですが、「先発 阿波野」でドキドキ、対戦相手の「甲子園ヒーローズ2007」の「4番 サード 金村」には「プレーできんのかぁ〜!」とヤジともブーイングともとれる(笑)声援を送り、試合前からうまいビールも入ってテンションは最高潮♪
村田兆治登板には140キロに期待を寄せ(今年は残念ながらMAX139キロでしたが)、達ちゃん駒田さんの打席にはホームランを期待し、槇原対バースにはバックスクリーンへのホームランコール、東尾対山本浩二・田淵に盛り上がり、9回2アウトともなれば自発的に「江夏!」コール…。
試合そのものも、点の取り合い、同点からザ・プレミアムモルツ球団片岡の勝ち越しタイムリーが出るなど、このカードにしては接戦で内容の濃い試合だったと思います。
初回から試合終了まで、見る方も気の抜けない、楽しい試合でした。
ちなみにビールは4杯でした(笑)。
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京浜間の鉄道事情を考えてみた
2006年10月12日 鉄道・交通網横浜市はこんなプランを考えています。
http://www.city.yokohama.jp/me/toshi/dcond/keihin/master/tosikiban.html
京浜臨海部の活性化のため、「京浜臨海線(仮称)」の整備・事業化を検討中とのこと。
具体的には、桜木町〜高島〜鶴見および浜川崎〜東京貨物ターミナルの既存の貨物線、それに鶴見線の弁天橋〜浜川崎という既存の線路を活用、高島〜弁天橋および東京貨物ターミナル〜品川・浜松町方面に新路線を建設し、京浜間の新たな交通ルートを作成しようとしているものです。
(桜木町〜浜川崎間は既存の東海道貨物支線を活用するというプランもあるようですが、これはあまり意味がないと思われます)
京浜工業地帯から企業の工場が撤退し、現在は大黒・末広地区を中心に産学協同の研究の地として変わりつつあるこの地域の活性化を考えることは、地元自治体としては当然のことだと思いますが、ここでふと思ったんです。
この計画の起点は、桜木町。
朝夕の通勤ラッシュ緩和をも狙っている路線という位置付けもありますが、それならば果たして桜木町起点でいいのだろうか、と。
あまり自分は朝ラッシュというものを体験したことがないのですが、数少ない経験からしても、京浜東北線のラッシュは大森〜品川がかなり混雑するものの、それ以南ではさほどではない。
むしろ、東海道線の横浜〜品川間の方が、殺人的とも言える混雑になっているわけです。
ならば、桜木町起点だとその緩和策として、あまりにも無効ではないのか、と。
根岸線の大船〜桜木町間は貨物列車も通っているくらい、線路容量に比較的余裕はあります。
ならば、東海道線の一部列車を、根岸線・京浜臨海線経由で走らせたら、それは効果的な策になるであろうと考えます。
但しこの区間を、東海道線の列車を各駅停車で走らせるのはどうかと思う。
ならば快速運転、という考えになりますが、この区間で待避できる駅は全くありません。
そもそも、そういう発想なしに作られた路線ですので。
仮に快速運転するとすれば、停車駅は大船・港南台・磯子・石川町・関内・桜木町、くらいに設定されそうですが、やはり待避できる設備がどうしても、途中1駅くらいは必要になるだろうと思います。
現実的に建設できそうなのは、洋光台くらい?
新杉田あたりも何とかなりそうですかね、っていうか、その辺じゃないと意味なさそうですけど…。
そもそも、新規区間として工事予定の、高島町〜弁天橋、それと都心部分が物理的に路線を設置できるのかが微妙なところだと思います。
前者、現実的には守屋町〜弁天橋間に設置することになりますが、極力現有線路を活用するとすれば、廃止された新興駅付近の線路を活用して、出田町埠頭を縦断する新しい路線、それに新興駅〜弁天橋への京浜運河を渡る線路を敷けばいいということになるでしょうが、新興駅にあった踏切はもちろん邪魔ですから、あの部分は地下化するしかないところ。
そうなると、京浜運河の下を掘るわけだから、かなり深くなりますが、出田町埠頭もそれでクリアできれば問題ないことになります。
(新興駅付近のところだけ、高架化できる可能性もあるだろうし)
問題は後者部分で、この辺がいろんなHP・資料を見てもとても曖昧に書かれているのですが、実際には東京貨物ターミナル駅から天王洲まで、りんかい線の線路とつながっているものの、その付近にはりんかい線の車庫もあり、実質線増しないとクリアできない、そこ以北も都心部に入りますから、品川に地下で乗り入れるくらいでないと、実現はとても難しそうです。
ただ一つ、天王洲付近と品川へのアクセスが、この鉄道ができることで格段によくなるのは間違いないことですね。
(天王洲から浜松町までは、東京モノレールが走ってますから重複するのは無駄だと思うし)
いっそのこと、無理に都心に乗り入れず、そのままりんかい線に乗り入れて東京湾岸地区へアクセスしてしまうのも、一手かと。
さて、一番問題だと思われるのは、この新規路線にどの程度の需要があるのか、ということだと思いますが、現在京浜間には、
・JR東海道線
・JR横須賀線
・JR湘南新宿ライン
・JR京浜東北線
・京急本線
・東急東横線
と、これだけの路線が走っているわけです。
現状では確かに、各路線とも朝夕のラッシュ時はかなり混雑していますが、現実的な2007年問題、それに今後の少子化の流れを考えると、通勤需要が落ち込んでくるのは間違いないこと。
はっきりした数字を把握していませんが、今後の10年単位のスパンで考えても、各路線とも乗車率は10%単位で緩和されていくという見通しもあります。
これらの状況を踏まえても、この京浜臨海線にどの程度需要があるのか、都心部まで乗り入れる必要があるのか(東京へ乗り入れず、鶴見線の活性化で何とか解決できないか)、慎重な判断をしていただきたいところです。
実際に、横浜市は交通局事業にて路線バスの大リストラを実行中で、交通予算にあまり比重をかけにくい一面も持っていることと思いますし、現中田市長の政権下でこういう事業にはあまり手を出さないのではないか、ということも充分考えられます。
趣味的には非常に面白い路線だと思うので(笑)、個人的にはできれば作り上げて欲しいと思うんですけどね(^^;。
http://www.city.yokohama.jp/me/toshi/dcond/keihin/master/tosikiban.html
京浜臨海部の活性化のため、「京浜臨海線(仮称)」の整備・事業化を検討中とのこと。
具体的には、桜木町〜高島〜鶴見および浜川崎〜東京貨物ターミナルの既存の貨物線、それに鶴見線の弁天橋〜浜川崎という既存の線路を活用、高島〜弁天橋および東京貨物ターミナル〜品川・浜松町方面に新路線を建設し、京浜間の新たな交通ルートを作成しようとしているものです。
(桜木町〜浜川崎間は既存の東海道貨物支線を活用するというプランもあるようですが、これはあまり意味がないと思われます)
京浜工業地帯から企業の工場が撤退し、現在は大黒・末広地区を中心に産学協同の研究の地として変わりつつあるこの地域の活性化を考えることは、地元自治体としては当然のことだと思いますが、ここでふと思ったんです。
この計画の起点は、桜木町。
朝夕の通勤ラッシュ緩和をも狙っている路線という位置付けもありますが、それならば果たして桜木町起点でいいのだろうか、と。
あまり自分は朝ラッシュというものを体験したことがないのですが、数少ない経験からしても、京浜東北線のラッシュは大森〜品川がかなり混雑するものの、それ以南ではさほどではない。
むしろ、東海道線の横浜〜品川間の方が、殺人的とも言える混雑になっているわけです。
ならば、桜木町起点だとその緩和策として、あまりにも無効ではないのか、と。
根岸線の大船〜桜木町間は貨物列車も通っているくらい、線路容量に比較的余裕はあります。
ならば、東海道線の一部列車を、根岸線・京浜臨海線経由で走らせたら、それは効果的な策になるであろうと考えます。
但しこの区間を、東海道線の列車を各駅停車で走らせるのはどうかと思う。
ならば快速運転、という考えになりますが、この区間で待避できる駅は全くありません。
そもそも、そういう発想なしに作られた路線ですので。
仮に快速運転するとすれば、停車駅は大船・港南台・磯子・石川町・関内・桜木町、くらいに設定されそうですが、やはり待避できる設備がどうしても、途中1駅くらいは必要になるだろうと思います。
現実的に建設できそうなのは、洋光台くらい?
新杉田あたりも何とかなりそうですかね、っていうか、その辺じゃないと意味なさそうですけど…。
そもそも、新規区間として工事予定の、高島町〜弁天橋、それと都心部分が物理的に路線を設置できるのかが微妙なところだと思います。
前者、現実的には守屋町〜弁天橋間に設置することになりますが、極力現有線路を活用するとすれば、廃止された新興駅付近の線路を活用して、出田町埠頭を縦断する新しい路線、それに新興駅〜弁天橋への京浜運河を渡る線路を敷けばいいということになるでしょうが、新興駅にあった踏切はもちろん邪魔ですから、あの部分は地下化するしかないところ。
そうなると、京浜運河の下を掘るわけだから、かなり深くなりますが、出田町埠頭もそれでクリアできれば問題ないことになります。
(新興駅付近のところだけ、高架化できる可能性もあるだろうし)
問題は後者部分で、この辺がいろんなHP・資料を見てもとても曖昧に書かれているのですが、実際には東京貨物ターミナル駅から天王洲まで、りんかい線の線路とつながっているものの、その付近にはりんかい線の車庫もあり、実質線増しないとクリアできない、そこ以北も都心部に入りますから、品川に地下で乗り入れるくらいでないと、実現はとても難しそうです。
ただ一つ、天王洲付近と品川へのアクセスが、この鉄道ができることで格段によくなるのは間違いないことですね。
(天王洲から浜松町までは、東京モノレールが走ってますから重複するのは無駄だと思うし)
いっそのこと、無理に都心に乗り入れず、そのままりんかい線に乗り入れて東京湾岸地区へアクセスしてしまうのも、一手かと。
さて、一番問題だと思われるのは、この新規路線にどの程度の需要があるのか、ということだと思いますが、現在京浜間には、
・JR東海道線
・JR横須賀線
・JR湘南新宿ライン
・JR京浜東北線
・京急本線
・東急東横線
と、これだけの路線が走っているわけです。
現状では確かに、各路線とも朝夕のラッシュ時はかなり混雑していますが、現実的な2007年問題、それに今後の少子化の流れを考えると、通勤需要が落ち込んでくるのは間違いないこと。
はっきりした数字を把握していませんが、今後の10年単位のスパンで考えても、各路線とも乗車率は10%単位で緩和されていくという見通しもあります。
これらの状況を踏まえても、この京浜臨海線にどの程度需要があるのか、都心部まで乗り入れる必要があるのか(東京へ乗り入れず、鶴見線の活性化で何とか解決できないか)、慎重な判断をしていただきたいところです。
実際に、横浜市は交通局事業にて路線バスの大リストラを実行中で、交通予算にあまり比重をかけにくい一面も持っていることと思いますし、現中田市長の政権下でこういう事業にはあまり手を出さないのではないか、ということも充分考えられます。
趣味的には非常に面白い路線だと思うので(笑)、個人的にはできれば作り上げて欲しいと思うんですけどね(^^;。
関東大震災は3度揺れた?!
2006年9月9日http://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2003/tokushu/
とある友達のブログで地震のことが書かれていて、その関連を調べていたら見つけたサイトです。
鹿島建設のサイトの特集コーナーみたい。
これによると、いわゆる「関東大震災」は、大正12年9月1日午前11時58分に、まず根府川の断層の破壊が始まり、その直後に藤沢〜三浦方面の断層破壊があったようで、これが第1回目の大きな揺れ…本震だったようです。
つまり、一つの地震ではなく、「双子の地震」と呼ばれるタイプの、2つの地震が同時に起こって規模が大きくなった大地震だった、ということなんだそうです。
これが最近までわからなかったのは、そもそもそういう大きな揺れが来ることを想定していなかったので、地震計がほとんど振り切ってしまい、明確な記録が残っていなかったからだそうで。
遠地の地震計の記録、それに被災者の体験談からやっと最近解明されつつあるようです。
さらにその直後(12時1分頃)に、羽田沖を震源とするM7.2という大きな余震が、さらにその2分後には山梨県道志方面を震源とする、M7.3の大きな余震が続いています。
M7クラス以上の地震が3つも続いたこと、それにこの9月1日はいわゆる「台風一過」で、関東地方に吹き戻しの強い風が吹いていたことが、東京下町地区を中心とした未曾有の大火災を引き起こし、多くの犠牲者を出した要因だったようですね。
(余談ですが、以前自分が書いた地震をテーマにしたフィクション小説では、羽田沖で地震が起きたことを想定して書きました。このことを知っていた訳じゃないんですが(^^;)
この地震で三浦半島では1mもの隆起があったところもありますし(今でも地層で見られます)、最初の震源だった根府川地域でも土石流や崖崩れなどの大きな災害が起きています。
ちなみに、阪神・淡路大震災も、最初は淡路島にある断層(野島断層として有名になりましたね)で破壊が始まり、続いて神戸市にあった断層が破壊を始めて(この断層群は一続きとも言われています)大きな地震を引き起こした、というメカニズムだそうです。
近年起こると言われている東海地震も、単発の可能性もありつつも、東南海・南海地震との同時発生の可能性も言われています。
どんな地震が起きてもいいように、日頃からの心構えをしておくことが大事なんでしょうね(^^;。
とある友達のブログで地震のことが書かれていて、その関連を調べていたら見つけたサイトです。
鹿島建設のサイトの特集コーナーみたい。
これによると、いわゆる「関東大震災」は、大正12年9月1日午前11時58分に、まず根府川の断層の破壊が始まり、その直後に藤沢〜三浦方面の断層破壊があったようで、これが第1回目の大きな揺れ…本震だったようです。
つまり、一つの地震ではなく、「双子の地震」と呼ばれるタイプの、2つの地震が同時に起こって規模が大きくなった大地震だった、ということなんだそうです。
これが最近までわからなかったのは、そもそもそういう大きな揺れが来ることを想定していなかったので、地震計がほとんど振り切ってしまい、明確な記録が残っていなかったからだそうで。
遠地の地震計の記録、それに被災者の体験談からやっと最近解明されつつあるようです。
さらにその直後(12時1分頃)に、羽田沖を震源とするM7.2という大きな余震が、さらにその2分後には山梨県道志方面を震源とする、M7.3の大きな余震が続いています。
M7クラス以上の地震が3つも続いたこと、それにこの9月1日はいわゆる「台風一過」で、関東地方に吹き戻しの強い風が吹いていたことが、東京下町地区を中心とした未曾有の大火災を引き起こし、多くの犠牲者を出した要因だったようですね。
(余談ですが、以前自分が書いた地震をテーマにしたフィクション小説では、羽田沖で地震が起きたことを想定して書きました。このことを知っていた訳じゃないんですが(^^;)
この地震で三浦半島では1mもの隆起があったところもありますし(今でも地層で見られます)、最初の震源だった根府川地域でも土石流や崖崩れなどの大きな災害が起きています。
ちなみに、阪神・淡路大震災も、最初は淡路島にある断層(野島断層として有名になりましたね)で破壊が始まり、続いて神戸市にあった断層が破壊を始めて(この断層群は一続きとも言われています)大きな地震を引き起こした、というメカニズムだそうです。
近年起こると言われている東海地震も、単発の可能性もありつつも、東南海・南海地震との同時発生の可能性も言われています。
どんな地震が起きてもいいように、日頃からの心構えをしておくことが大事なんでしょうね(^^;。
「試合時にハンカチを使うこと」をやめさせないと…
2006年8月31日 アマチュア野球・日本代表とあるネット内のコミュニティに、野球規則について語り合うところがあって、そこで出てきた話題です。
公認野球規則に、こんな条項があります。
つまり、早稲田実業の斉藤投手が、試合中にハンカチを使って汗を拭う行為は規則違反、ということになります。
過去にメジャーリーグで布きれにポマードをつけ、それを投球する度にあたかも汗を拭うかのように見せ、違反投球をしていた投手が実在した、なんていう話もあります。
斉藤投手がそんなことをしているとは微塵にも思わないし、斉藤投手の素晴らしさを否定する気など全くある訳ではなく、ただそれが反則行為であるのだから、審判もしくは大会役員(本来なら監督などの指導者)がその行為をやめさせなければならなかったはずだと思うのですが。
(実際、投手はリストバンドの使用も禁止されているはずです)
特に教育の一環であるとされる高校野球ならば、尚更徹底されてもいいと思うんですけどね…。
「ハンカチ王子」とまで呼ばれ、今や彼の代名詞的な役割をも持つハンカチですが、やっぱりやめさせた方がいいと、強く思います。
公認野球規則に、こんな条項があります。
8・02 投手は次のことを禁じられる。
(略)
(b) 投手が如何なる異物でも、身体につけたり、所持すること。
本項に違反した投手はただちに試合から除かれる。
つまり、早稲田実業の斉藤投手が、試合中にハンカチを使って汗を拭う行為は規則違反、ということになります。
過去にメジャーリーグで布きれにポマードをつけ、それを投球する度にあたかも汗を拭うかのように見せ、違反投球をしていた投手が実在した、なんていう話もあります。
斉藤投手がそんなことをしているとは微塵にも思わないし、斉藤投手の素晴らしさを否定する気など全くある訳ではなく、ただそれが反則行為であるのだから、審判もしくは大会役員(本来なら監督などの指導者)がその行為をやめさせなければならなかったはずだと思うのですが。
(実際、投手はリストバンドの使用も禁止されているはずです)
特に教育の一環であるとされる高校野球ならば、尚更徹底されてもいいと思うんですけどね…。
「ハンカチ王子」とまで呼ばれ、今や彼の代名詞的な役割をも持つハンカチですが、やっぱりやめさせた方がいいと、強く思います。
横浜市交通局の財政再建・合理化に伴い、鶴見区内でも以下の路線の廃止が答申されています。
自分なりにちょっと考察してみました。
○14系統 新子安駅西口〜安養寺(実質鶴見駅西口)間
沿線に浅野学園があるんだし、全面廃止じゃなくて朝夕の通学時間帯のみ運行として、残した方がいいかと。
○17系統 海釣り公園〜大黒海釣り公園ほか
大黒ふ頭内の不採算路線の廃止を謳ってます。
ま、ここはしょうがないかな…。
ちなみに、答申では19系統・109系統との統合方針が示されてますが、それでも路線が残ればいいでしょう。
○18系統 生麦〜鶴見駅〜矢向駅
○72系統 鶴見駅〜三ツ池道〜江ヶ崎
(実質同一路線なのでまとめて)
こういう路線こそまさに「市営バス」がやらなきゃ行けない路線かと。
尻手・矢向方面の住民が区役所・市役所などの行政サービスを受けるために、特に交通弱者の方には必要な路線だと思います。
廃止反対。
○24系統 内路〜西寺尾小学校前
24系統の真ん中あたりを分断するってことは、実質24系統の廃止=213系統・38系統との統合を謳ってるわけで。
ここ、案外利用者が多いんじゃないかと思うけど、大口駅にも近いし、他のバス路線へのアクセスも悪いところじゃないから、しょうがないかな。
○27系統 鶴見駅〜汐鶴橋〜安善町
朝・夕のみ運行とか、臨港バスへの移管も考えられる路線かと。
でも利用者少ないかな。
○38系統 内路〜大口駅前
38系統の支線廃止答申。
24系統の廃止答申区間の、ちょうど横浜線を挟んで反対側。
ってことで、24系統と同じ意見(^^;。
○42系統 一ノ瀬〜鶴見駅〜汐入町二丁目
この路線って、今や鶴見駅以北は13系統と、以南は臨港鶴08系統と丸かぶりだから、確かにいらない気も。
市営バスじゃないけど、臨港鶴12系統の菊名駅延伸案、どうなったんでしょうね〜。
鶴見駅西口バス停改称時の方向幕入れ替えの時、何故か鶴12系統上りの起点が「菊名駅」になってたんですよね。
ってことは、延伸案があるのかな〜?、って思ってたけど…。
(ちなみに、現在は消してあります(笑)<「菊名駅」の幕部分)
できなくはないと思うんだけどなぁ。
自分なりにちょっと考察してみました。
○14系統 新子安駅西口〜安養寺(実質鶴見駅西口)間
沿線に浅野学園があるんだし、全面廃止じゃなくて朝夕の通学時間帯のみ運行として、残した方がいいかと。
○17系統 海釣り公園〜大黒海釣り公園ほか
大黒ふ頭内の不採算路線の廃止を謳ってます。
ま、ここはしょうがないかな…。
ちなみに、答申では19系統・109系統との統合方針が示されてますが、それでも路線が残ればいいでしょう。
○18系統 生麦〜鶴見駅〜矢向駅
○72系統 鶴見駅〜三ツ池道〜江ヶ崎
(実質同一路線なのでまとめて)
こういう路線こそまさに「市営バス」がやらなきゃ行けない路線かと。
尻手・矢向方面の住民が区役所・市役所などの行政サービスを受けるために、特に交通弱者の方には必要な路線だと思います。
廃止反対。
○24系統 内路〜西寺尾小学校前
24系統の真ん中あたりを分断するってことは、実質24系統の廃止=213系統・38系統との統合を謳ってるわけで。
ここ、案外利用者が多いんじゃないかと思うけど、大口駅にも近いし、他のバス路線へのアクセスも悪いところじゃないから、しょうがないかな。
○27系統 鶴見駅〜汐鶴橋〜安善町
朝・夕のみ運行とか、臨港バスへの移管も考えられる路線かと。
でも利用者少ないかな。
○38系統 内路〜大口駅前
38系統の支線廃止答申。
24系統の廃止答申区間の、ちょうど横浜線を挟んで反対側。
ってことで、24系統と同じ意見(^^;。
○42系統 一ノ瀬〜鶴見駅〜汐入町二丁目
この路線って、今や鶴見駅以北は13系統と、以南は臨港鶴08系統と丸かぶりだから、確かにいらない気も。
市営バスじゃないけど、臨港鶴12系統の菊名駅延伸案、どうなったんでしょうね〜。
鶴見駅西口バス停改称時の方向幕入れ替えの時、何故か鶴12系統上りの起点が「菊名駅」になってたんですよね。
ってことは、延伸案があるのかな〜?、って思ってたけど…。
(ちなみに、現在は消してあります(笑)<「菊名駅」の幕部分)
できなくはないと思うんだけどなぁ。
さようなら、交通博物館
2006年4月19日 鉄道・交通網 コメント (2)
昨日、交通博物館に行ってきました。
鉄道少年(幼児)だった俺は、よく母方のおじいちゃんに連れられて行きました。
パノラマ模型を食い入るように見て、101系のドア開閉を飽きるまでやって、157系の運転台でマスコンとブレーキ操作をして(当時はシミュレータなんてなかったですからね)、御料車や1号機関車をただ「古い電車〜」なんて思って(^^;、転轍機(注・ポイントの切り替え機)をいじって、新幹線の発車案内を操作して、4階に上がって「こだま食堂」でミートソースを食べて(今思えば、うまいもんじゃなかったと思いますが(^^;)、最後に売店横にあったメダルを買ってもらって、というのがお決まりのパターンでした。
保育園に入る前から、小学校高学年までずっとそのパターンが続いていたと思います。
そして中学に上がると初めて友達同士で行くようになり、彼女を連れて行ったこともありました(^^ゞ。
結婚してからも一度、妻を連れて思い出にふけったこともありました。
そんな「思い出の場所」が、ついに今年の5月14日をもって、閉館になります。
なかなか行ける機会がなかったのですが、昨日やっと、娘を連れて行くことができました。
娘、動く電車やバスを見るのが好きです。
誰に似ちゃったんだろう…(苦笑)。
きれいになった秋葉原駅を降りて、電気街を抜けて万世橋の交差点を渡って万世橋を渡って、と、ずっとずっと通ったコースを、ベビーカーを押しながら歩くと、やはりいつものように、そこにありました。
入場券を買って中に入ると、多少展示物は変わったけれど、子供の頃から配置はほとんど変わっていません。
1階から3階まで、すでにどこに何があるのか、全て把握しています。
一通り1階をグルッと回り、11時からのパノラマ模型の実演を見ようと客席につくと、一気に30年来の思い出、そして何よりも、おじいちゃんのことが頭に出てきました。
ここで俺の楽しそうな顔を見るのが、何よりも好きだったおじいちゃん。
そこに、ひ孫と一緒に来れたんだよ、おじいちゃん!
ホントなら、一緒に来られればよかったけどね・・・。
そんなことを考えたら、涙が溢れて来ちゃいました(^o^;。
…しかし、それをつんざくようにグズりだす娘(^^;。
何とかなだめて、せめて模型の実演だけでも…、と思いましたが、泣く子には勝てない(^^ゞ。
パパは別の涙をこらえて(苦笑)、交通博物館を後にしたのでした。
滞在時間、実に30分(^^;;。
念のために再入館用のチケットももらっておきましたが、結果的には無駄になってしまいました。
建物を出る時には、来週にでもリベンジさせてもらおう、なんて考えてました(笑)。
シミュレータも全然触らなかったし。
でも、「一番最後に、娘を連れてきた」っていうことのほうが、自分でも大きいような気がして…。
もう、これで交通博物館とは「お別れ」することにしました。
35年近く、楽しませてくれて、本当にありがとう!!
楽しかったよ!(;_;)/
鉄道少年(幼児)だった俺は、よく母方のおじいちゃんに連れられて行きました。
パノラマ模型を食い入るように見て、101系のドア開閉を飽きるまでやって、157系の運転台でマスコンとブレーキ操作をして(当時はシミュレータなんてなかったですからね)、御料車や1号機関車をただ「古い電車〜」なんて思って(^^;、転轍機(注・ポイントの切り替え機)をいじって、新幹線の発車案内を操作して、4階に上がって「こだま食堂」でミートソースを食べて(今思えば、うまいもんじゃなかったと思いますが(^^;)、最後に売店横にあったメダルを買ってもらって、というのがお決まりのパターンでした。
保育園に入る前から、小学校高学年までずっとそのパターンが続いていたと思います。
そして中学に上がると初めて友達同士で行くようになり、彼女を連れて行ったこともありました(^^ゞ。
結婚してからも一度、妻を連れて思い出にふけったこともありました。
そんな「思い出の場所」が、ついに今年の5月14日をもって、閉館になります。
なかなか行ける機会がなかったのですが、昨日やっと、娘を連れて行くことができました。
娘、動く電車やバスを見るのが好きです。
誰に似ちゃったんだろう…(苦笑)。
きれいになった秋葉原駅を降りて、電気街を抜けて万世橋の交差点を渡って万世橋を渡って、と、ずっとずっと通ったコースを、ベビーカーを押しながら歩くと、やはりいつものように、そこにありました。
入場券を買って中に入ると、多少展示物は変わったけれど、子供の頃から配置はほとんど変わっていません。
1階から3階まで、すでにどこに何があるのか、全て把握しています。
一通り1階をグルッと回り、11時からのパノラマ模型の実演を見ようと客席につくと、一気に30年来の思い出、そして何よりも、おじいちゃんのことが頭に出てきました。
ここで俺の楽しそうな顔を見るのが、何よりも好きだったおじいちゃん。
そこに、ひ孫と一緒に来れたんだよ、おじいちゃん!
ホントなら、一緒に来られればよかったけどね・・・。
そんなことを考えたら、涙が溢れて来ちゃいました(^o^;。
…しかし、それをつんざくようにグズりだす娘(^^;。
何とかなだめて、せめて模型の実演だけでも…、と思いましたが、泣く子には勝てない(^^ゞ。
パパは別の涙をこらえて(苦笑)、交通博物館を後にしたのでした。
滞在時間、実に30分(^^;;。
念のために再入館用のチケットももらっておきましたが、結果的には無駄になってしまいました。
建物を出る時には、来週にでもリベンジさせてもらおう、なんて考えてました(笑)。
シミュレータも全然触らなかったし。
でも、「一番最後に、娘を連れてきた」っていうことのほうが、自分でも大きいような気がして…。
もう、これで交通博物館とは「お別れ」することにしました。
35年近く、楽しませてくれて、本当にありがとう!!
楽しかったよ!(;_;)/
ベイスターズ専門のSNSがあります!
2006年4月7日 プロ野球 コメント (1)今回は(久しぶりの投稿ですが)ちょっと宣伝です(^^;。
今やネットのあちこちにいろんなSNSがありますが、横浜ベイスターズファンが集まるSNSもあります。
http://baystars.hsns.jp/
本来は紹介制のサイトですが、現在期間限定で直接登録もできるようになってます。
ベイスターズファンのみなさま!
是非参加しませんか!!
今やネットのあちこちにいろんなSNSがありますが、横浜ベイスターズファンが集まるSNSもあります。
http://baystars.hsns.jp/
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ベイスターズファンのみなさま!
是非参加しませんか!!
こんなことしてます。
2006年3月29日 日常
http://weathernews.jp/sakura2006/cgi/search_result.fcgi?menu=proj&;id=1257&CityOrder=43
(↑リンクが途中で切れてしまうようですね(__;)。ご覧頂ける方、コピペして飛んで下さい。m(__)m)
ウェザーニューズという気象情報会社の携帯サイトで、「さくらプロジェクト」というのに参加していて、近所の桜の開花状況をレポートしてます。
今年からはPCでも見られるようになりました(^o^)。
ということで、標準木は近所の三ツ池公園、南門から入ってすぐのところの木に定めて、毎朝写真を撮ってます。
某サイトと某SNSでも、毎朝レポートをしています♪
横浜東部地方の桜は、今週末が見頃かな?
昨日の夜みたいな嵐が来なければいいんだけど…(^^;。
ってことで、今朝の一枚。
(↑リンクが途中で切れてしまうようですね(__;)。ご覧頂ける方、コピペして飛んで下さい。m(__)m)
ウェザーニューズという気象情報会社の携帯サイトで、「さくらプロジェクト」というのに参加していて、近所の桜の開花状況をレポートしてます。
今年からはPCでも見られるようになりました(^o^)。
ということで、標準木は近所の三ツ池公園、南門から入ってすぐのところの木に定めて、毎朝写真を撮ってます。
某サイトと某SNSでも、毎朝レポートをしています♪
横浜東部地方の桜は、今週末が見頃かな?
昨日の夜みたいな嵐が来なければいいんだけど…(^^;。
ってことで、今朝の一枚。
3日ほど前の話ですが
2006年3月23日 おしごとのこと。
20日の月曜日、我が業界の関東甲信越地区の、青年女性部連絡会議というところに行ってきました。
各都県が持ち回りで半年ごとに開催、今回は神奈川が当番県だったので、いろんな事情もありましてお手伝いさせて頂くことに。
朝7時に、地元の最寄り駅に集合。
遅れそうな一人が予想通りに「あとから行きます」とのことで(苦笑)、そのまま石川町まで行って、徒歩で中華街の「ローズホテル横浜」へ。
ここが、今回の会場でした。
今回は、何故かカメラマンを担当させられたので、スチールの一眼レフカメラにおバカデジカメ(一応400万画素)、それにノートPCを持って行くという大荷物。
しかも、年に数回しか着ないという、スーツ姿(^^;。
…いや、スーツはいいんですよ。
むしろ、着るのは好きかも。
問題は・・・、靴。
某有名メーカーの革靴を、スーツ姿の時には履いていくんですが、これが今回あとで大変なことになるとは…。
午前中が150人ほどの全体会議、昼食を挟んで午後は青年部と女性部に別れての分科会、再度合流して総括があり、真面目な部(笑)終了。
会場を隣の宴会場に移し、まずは川久保秀一(http://www.kawakubo.net/)さんという方のライブがスタート。
(以前の日記(http://diarynote.jp/d/26584/20040818.html)にも登場して頂いた方です(^^))
そしてそのまま懇親会、二次会…、という流れでした。
で、カメラマンの役割を受けた俺は、ひたすら2台のカメラを駆使して写真を撮る、撮る、撮る、撮る…。
コストのことも考えて、できる限りデジカメを使いたかったんですが、会場が広すぎて、おバカデジカメでは光量が足りないことに気づいたのは、始まってすぐ。
ある程度なら、あとで補正かけることもできるけど、それでもちょっと怪しいくらいの感じだったので、大切なカットになりそうな写真は、できる限りスチールで撮るようにしてました。
お昼御飯で出た、仕出し弁当の写真でも載せておきましょうか(笑)。
午後の分科会が始まり、スチールカメラのフィルムを2本使い切ってしまったので、55分現像のお店(^^;でCD-Rに焼いてもらおうと(最初からそのつもりだったんですけどね)思い、ネットで検索すると一番近いのが、横浜スタジアムの向こう側。
地図で見れば、まぁ1キロくらいなものなので、たいした距離じゃないとまずはフィルムを出しに。
…ところが。
計算外だったのは、革靴だったこと。
しかも、大きな声じゃ言えないけど、足の裏にウオノメがあること。
普段運動靴やゴム底の靴で活動しているような俺が、このような体制で町中を歩かなくてはならない状況というのは、同じような体験をされている方なら容易に想像がつくでしょう。
往路はよかったんです。往路は。
帰りも、まぁ多少ウオノメが痛い程度で、戻ってすぐにフィルムを入れ替えたり、そこまでのデジカメの写真をPCに転送したり、と休憩も兼ねて作業してました。
それも一段落すると、もう現像が終わる時刻!
…そうです。
たいした休憩もなく、また往復約2キロの距離を歩いてきました。
ウオノメくんは、すっかり悲鳴を挙げてました(涙)。
戻ってくるとちょうど分科会も終わった頃で(ちゃんと分科会の写真も撮りましたよ! …最初だけ(^^;)もう一度全体会議が始まるんで、また会場で写真をパシャパシャと。
そういう時って、痛みは忘れるものです。
そして、ライブ〜懇親会が始まり、酒もそこそこに(正直、飲んでるヒマがあんまりなかった(^^;)会場をぐるぐる回って写真を撮って、終わりには川久保さんのCD販売もお手伝いして、その頃には実はかなりグッタリしてました・・・。
しかぁ〜し!
二次会は、事前申し込み済み(泣)。
もちろん、カメラマンとしての仕事も残ってます。
「もうこうなりゃ勢いだぁ〜!」
とばかりに、二次会の会場に移動して、今度は飲みました。
…って書きたいけど、そんなに飲んだ記憶がない(^^;。
しかも、二次会が終わるまでに、今まで撮った写真をCD-Rに焼いて渡さなきゃならない。
しかも、複数枚。
途中から飲み物は水に代わり、ちょっと離れたところでPCを開いてCDをひたすら、焼く。
しかも、ライターの調子が悪かったようで、9枚焼くはずだったのに、ちゃんと焼けたのは3枚だけ。○| ̄|_ガックリ
とりあえず3枚あればいいよ、とのことだったので、三次会のお声がけは丁重にお断りして、元町・中華街駅へまた重い機材を持って、一人でトボトボ、ヨレヨレと歩き出しました。
この時点で、かなり疲れてました。(__;)
始発駅だから座れて良かったけど、地元駅でバスを待ってる間が一番辛かったかも(^^;。
帰宅したのは22時過ぎだったような気がしますが、靴を脱いだらスネは痛いし、足の裏はむくんでる(っていうか腫れてた)し、倒れ込むように寝てしまいました。
翌日。
起きたら、太もももパンパン。
スネも痛い。
足の裏も、鈍痛。
それでも、どうしても職場でやらなきゃいけないこともあったんで、10時頃には無理矢理起きましたけどね(^^;。
昼ご飯は近所の中華料理屋さんで食べて、その前後は実家でゴロゴロしてました(^^;。
こういう機会、これからは増えそうだからゴム底のちゃんとした革靴を買っておこうっと(^^;;;。
各都県が持ち回りで半年ごとに開催、今回は神奈川が当番県だったので、いろんな事情もありましてお手伝いさせて頂くことに。
朝7時に、地元の最寄り駅に集合。
遅れそうな一人が予想通りに「あとから行きます」とのことで(苦笑)、そのまま石川町まで行って、徒歩で中華街の「ローズホテル横浜」へ。
ここが、今回の会場でした。
今回は、何故かカメラマンを担当させられたので、スチールの一眼レフカメラにおバカデジカメ(一応400万画素)、それにノートPCを持って行くという大荷物。
しかも、年に数回しか着ないという、スーツ姿(^^;。
…いや、スーツはいいんですよ。
むしろ、着るのは好きかも。
問題は・・・、靴。
某有名メーカーの革靴を、スーツ姿の時には履いていくんですが、これが今回あとで大変なことになるとは…。
午前中が150人ほどの全体会議、昼食を挟んで午後は青年部と女性部に別れての分科会、再度合流して総括があり、真面目な部(笑)終了。
会場を隣の宴会場に移し、まずは川久保秀一(http://www.kawakubo.net/)さんという方のライブがスタート。
(以前の日記(http://diarynote.jp/d/26584/20040818.html)にも登場して頂いた方です(^^))
そしてそのまま懇親会、二次会…、という流れでした。
で、カメラマンの役割を受けた俺は、ひたすら2台のカメラを駆使して写真を撮る、撮る、撮る、撮る…。
コストのことも考えて、できる限りデジカメを使いたかったんですが、会場が広すぎて、おバカデジカメでは光量が足りないことに気づいたのは、始まってすぐ。
ある程度なら、あとで補正かけることもできるけど、それでもちょっと怪しいくらいの感じだったので、大切なカットになりそうな写真は、できる限りスチールで撮るようにしてました。
お昼御飯で出た、仕出し弁当の写真でも載せておきましょうか(笑)。
午後の分科会が始まり、スチールカメラのフィルムを2本使い切ってしまったので、55分現像のお店(^^;でCD-Rに焼いてもらおうと(最初からそのつもりだったんですけどね)思い、ネットで検索すると一番近いのが、横浜スタジアムの向こう側。
地図で見れば、まぁ1キロくらいなものなので、たいした距離じゃないとまずはフィルムを出しに。
…ところが。
計算外だったのは、革靴だったこと。
しかも、大きな声じゃ言えないけど、足の裏にウオノメがあること。
普段運動靴やゴム底の靴で活動しているような俺が、このような体制で町中を歩かなくてはならない状況というのは、同じような体験をされている方なら容易に想像がつくでしょう。
往路はよかったんです。往路は。
帰りも、まぁ多少ウオノメが痛い程度で、戻ってすぐにフィルムを入れ替えたり、そこまでのデジカメの写真をPCに転送したり、と休憩も兼ねて作業してました。
それも一段落すると、もう現像が終わる時刻!
…そうです。
たいした休憩もなく、また往復約2キロの距離を歩いてきました。
ウオノメくんは、すっかり悲鳴を挙げてました(涙)。
戻ってくるとちょうど分科会も終わった頃で(ちゃんと分科会の写真も撮りましたよ! …最初だけ(^^;)もう一度全体会議が始まるんで、また会場で写真をパシャパシャと。
そういう時って、痛みは忘れるものです。
そして、ライブ〜懇親会が始まり、酒もそこそこに(正直、飲んでるヒマがあんまりなかった(^^;)会場をぐるぐる回って写真を撮って、終わりには川久保さんのCD販売もお手伝いして、その頃には実はかなりグッタリしてました・・・。
しかぁ〜し!
二次会は、事前申し込み済み(泣)。
もちろん、カメラマンとしての仕事も残ってます。
「もうこうなりゃ勢いだぁ〜!」
とばかりに、二次会の会場に移動して、今度は飲みました。
…って書きたいけど、そんなに飲んだ記憶がない(^^;。
しかも、二次会が終わるまでに、今まで撮った写真をCD-Rに焼いて渡さなきゃならない。
しかも、複数枚。
途中から飲み物は水に代わり、ちょっと離れたところでPCを開いてCDをひたすら、焼く。
しかも、ライターの調子が悪かったようで、9枚焼くはずだったのに、ちゃんと焼けたのは3枚だけ。○| ̄|_ガックリ
とりあえず3枚あればいいよ、とのことだったので、三次会のお声がけは丁重にお断りして、元町・中華街駅へまた重い機材を持って、一人でトボトボ、ヨレヨレと歩き出しました。
この時点で、かなり疲れてました。(__;)
始発駅だから座れて良かったけど、地元駅でバスを待ってる間が一番辛かったかも(^^;。
帰宅したのは22時過ぎだったような気がしますが、靴を脱いだらスネは痛いし、足の裏はむくんでる(っていうか腫れてた)し、倒れ込むように寝てしまいました。
翌日。
起きたら、太もももパンパン。
スネも痛い。
足の裏も、鈍痛。
それでも、どうしても職場でやらなきゃいけないこともあったんで、10時頃には無理矢理起きましたけどね(^^;。
昼ご飯は近所の中華料理屋さんで食べて、その前後は実家でゴロゴロしてました(^^;。
こういう機会、これからは増えそうだからゴム底のちゃんとした革靴を買っておこうっと(^^;;;。
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